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第7話 紙袋

< 「大きな紙袋だな」  月島は、櫻木とすれ違いざまに彼女の抱えている荷物を見てそう思った。時間は朝の七時半、場所は集中治療室を併設している四階の外科病棟とスタッフ専用のエリアを繋ぐ通路だ。セキュリーティーゾーンに少し入ったところにある十m程のあまりぱっとしない短い通路であるが、医局へ戻るときに便利なためか好んで用いる医師が少なくない。瓢箪の中央のようにくびれている部分であるため、必然的に至近距離ですれ違う。医師の多くが病棟へ向かう朝の八時半頃がもっとも慌ただしい時間帯であろうか。混雑というと誇張も甚だしいが、病院の敷地内で、歩いている医師の密度が最も高いところだと月島は日頃から思っている。  彼はこの場所を決まって朝の七時半に通過する。ICUに向かうのだ。そして、この時間帯にここを通るもう一人の医師が櫻木である。結果、二人は稀ならずこの場所でこの時間にすれ違うのだ。月島はその日、高級感が漂う役員エリアを隔てている扉を抜けて、連絡路に繋がる角を左に折れたところで、反対側からやってくる櫻木に気付いた。セキュリティー部門に通じる扉を開けて、ちょうどスタッフゾーンに入ってくるところである。彼女の醸し出す雰囲気は、遠く離れていても、そしてそれがたとえ大人数の中であっても、とにかく目立ってしまう。スタイルがいいと言ってしまえばそれまでであるが、小顔と体幹、手足の織り成す絶妙なバランスが、その圧倒的なオーラを作り上げているのではと月島は思っている。そして近づくと、整った彫りの深い顔のつくりに圧倒されてしまう。早朝の出勤時にはマスクをしていないから、その美貌は圧倒的だ。  櫻木はすれ違いざまにぺこりと頭を下げた。「おはようございます」と言っているような気もするが、聞こえない。そして月島も頭を少し下げた。「おはよう」と言ったつもりであるが、櫻木の耳に届いたかどうかは分からない。上司としてはそっけない対応であるが、必要性がない限り、月島は櫻木に対して最小限の対応を心がけている。不要な誤解を生まないためである。特に医局やアンギオ室の外で楽しく世間話をしていると、あらぬ噂が立つかもしれない。実際に数年前、月島は美しい櫻木をエコ贔屓していると疑念を持たれた。これは月島の本意ではないし、もちろん循環器...

第6話 雲桜

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<  月島は自宅のおよそ二百メートル手前にある六十段の階段を前にふと立ち止まった。特に意味があるわけではない。ただ何となく立ち止まっただけである。そして、おもむろに階段を見上げた。両側には桜の木が等間隔に植えられているが、この時期は全く見栄えがしない。春の花盛でもなければ秋の紅葉でもない。黒っぽい樹幹が無表情に並んでいるだけである。芽吹きを感じるにはまだ数カ月を要するだろう。空には雲が部分的にかかっていて、おそらく満月ではない月が半分程顔をだしている。闇夜ではないが、明るいはとても言えない。心許ない月明りが、樹幹をうっすらと照らし出している。  月島はズボンの左後ろのポケットに入れているスマホを取り出して、シャッターを押した。これにも特に意味があったわけではない。ほとんど無意識に写真を撮ったのだ。彼の携帯電話は中国の中堅メーカーの中堅モデルであるためか、あまりきれいな写真が撮れない。設定を変更すれば画質が向上するのかもしれないが、現状に不満がないため初期設定のまま使用している。しかし月島は最近、カメラアプリに夜景モードがあることに気づいた。不思議なことに、シャッター開放時間が長いにも関わらず、手ぶれが起きないのだ。出来上がった写真が、自身の眼で認識している実際の風景とは少し違う点も悪くない。うまく表現できないが、昭和の下町を舞台にした映画「三丁目の夕日」のような感じに仕上がるのだ。  撮ったばかり写真をスマホの画面で確認して少し驚いた。黒い桜の幹が銀色に輝き、その枝先には空の雲がまとわりついている。まるで月夜に照らされた夜桜だ。  そして月島は突然、映画「メメント」を思い出した。なぜ映画なのかは分からない。そしてどうしてこの映画なのかも分からない。確かに「メメント」は月島が愛している映画の一つだ。今までに少なく見積もっても三回は見ている。もっともオリジナルの英語版での視聴だから細かいあらすじには自信がない。この物語は複雑なストーリで、おまけに時間を逆行して物語が進行する──つまり起承転結の結から始まって、起に遡っていくのである。そしてこの数奇な映画のように、数奇だった今週が頭の中で再現され始めたことに月島は気づいた。陳腐な表現で言えば、まさに走馬灯の如きである。異なる世界線に迷入したと...

第5話 Ⅳ音

< 「先生ですか?  IL ( いちエル ) で上がっています」 「分かった。病院に向かう」  月島は電話を切ると、枕元に置いているデジタル時計の上部にあるバーを右手で押した.暗闇の中に青いライトで時間が映しだされる。午前三時を少し回ったところだ。電話の相手は、月島の部下である櫻木だ。名乗らなくても声で分かる。彼女は美人にありがちな声とでもいえるだろうか。おそらく少しピッチが高いのだ。小顔ゆえに口腔内の容積が小さいため、必然的にそのような声になるのだろうと月島は勝手に分析している。いずれにせよ彼女のとても目立つ外観にふさわしい声であることは確かだ。月島は櫻木の声を聴くたびにそんな風に思っていた。   I ( いち ) と L ( エル ) とは心電図の誘導名である。仮に櫻木の言葉を正確に記すならば、「標準十二誘導心電図のI誘導とL誘導でST部分が上昇している」ということになるであろうか。しかし医師は──少なくとも循環器内科医は──そんなまどろっこしい言い方は決してしない。ちなみにI誘導とL誘導とは左心室の側壁を反映し、ST上昇は急性心筋梗塞を示唆する。よってモカネ病院循環器内科の櫻木からの電話は「救急室に側壁の急性心筋梗塞の患者がいるので、すぐに病院へ来てください」という意味だ。月島は櫻木の上司で循環器内科の部長である。カテーテルを用いた緊急手術(冠動脈インターベンション)が必要なのだ。  月島はベットから降りると同時に、スマホでタクシーを呼ぶアプリを起動させた。都会であっても、タクシーを確保するのに時間を要する時間帯があるからだ。月島の目覚めはシャープだ。眠い目をこすったり、布団の温もりに後ろ髪を引かれることはない。いつも四時五十五分に起きているため、三時の目覚めなら少し早起きした程度なのだ。すばやく服を着替えてさっと顔を洗った。いつでも病院に向かうことができる。  月島の準備は整ったが、予想通りタクシーが捕まらない。配車を探していることを示す円形の矢印が、スマホの画面の左下でクルクルと回り続けいてる。前日は金曜の夜であり、遅くまで楽しんで終電を逃した人たちがタクシーを使っているのであろうか。月島は自家用車で病院に向かうことを少し考えた。確か昨夜はドラフトの缶ビールを一本と半分ほど飲ん...

第4話 吃逆

<  年明けの通常外来はあまり混まない。会社が休みのうちに定期受診をさっさと済ませておきたいと考える人はいる。しかし体調が悪くなければ、わざわざこの時期に病院を訪れたい人は少ないのではないか。月島はいつもそんなふうに思っている。 「今日の外来は平和だね。この調子なら午前中に終了したりして」  月島は軽い調子で、隣にいる事務職の旭に声をかけた。 「そう、です、ね」  旭に元気がない。いつも活気があるというわけではないが、今日はどこか調子が悪そうだ。朝から時折マスクを外して、口の中に飴を放り込んでいる。これで五個目だろうか、およそ三十分に一個のペースだ。旭の声のトーンはいつもと変わらないが、なにかしゃべりにくそうだ。そして口数も、いつにも増して少ないような気がする。  そういえば彼女の同僚が、旭は年末年始に体調を崩して家に引きこもっていたことを外来前に教えてくれた。近隣ではインフルエンザ(ほとんどA型)が流行し、コロナも依然散発している。旭はいずれも陰性であったそうだが、これはあまりあてにはならない。発症早期では検査が偽陰性になることがあるためだ。一~二日後に再検すればより確実であるが、コストと時間の問題がある。そんなことをする人は少数派で、もちろん彼女も検査は一度きりである。  旭はいつも通り薄着で仕事をしていた。病院から支給されている青いストライプの入ったオーバーブラウスのみだ。素材は分からないが通気性の高そうな夏仕様で、保温性に優れているとは思えない。この冬の時期には多くの職員が長袖のオーバーブラウスにベストを重ね着していることとは対照的だ。中には厚めのロングカーデガンを羽織っている女子職員もいる。さすがに旭でも、感染症に罹患していればこんな薄着は辛いだろう月島は思った。  本日の外来は予約時間に来院しない患者が多かった。想定外の用事で予定受診をキャンセルする患者は少なくない。何かと行事が多いこの時期なので、予約自体を忘れている患者もいるだろう。特段予定がなくても、残薬があれば正月明けくらいはゆっくりしたい気持ちもわからないではない。来院しない理由がなににせよ、今日のようにゆったりとした外来も悪くないものだと月島は思っていた。 ...

第3話 外来

<  循環器内科外来の第一診察室で月島と旭が話している。時刻は朝の八時を少し回ったばかりだ。 「今日はどう?」 「はい。大変です」 「今日は多いの?」 「はい。今日も多いです」 「ちょっと焦っている?」 「はい。焦っています」 「パニックになりそう?」 「いえ、それはないです」  月島は都会にある総合病院の循環器内科の部長で、旭は医師の事務作業をサポートする専門職である。外来診察の開始時間は九時であるが、月島はいつも八時半から外来を開始する。よって旭も八時には診察室に来て準備を始める。そして二人は時々、短いやり取りをするのだ。  月島の外来はいつも混雑している。多くの定期フォロー患者に加えて、近隣のクリニックから月島を指名した紹介患者がかなりの数にのぼる。循環器外来の中でもその混雑ぶりは際立っている。人気があると言えば聞こえがいいが、喜んでばかりもいられない。いくら月島の的確で迅速な対応力をもってしても、時間を要する症例が続けば診察は遅れてしまう。そして救急科や総合診療科など他科からの当日紹介も少なくない。患者が入院している病棟からのコンサルトも頻繁だ。  患者も三十分程度の診察の遅れは多めに見てくれるが、一時間を超えたあたりから不満の声が聞こえだす。そこに重症例が重なると目も当てられない。そんな時、旭の焦りはピークに達するとおもわれるが、彼女がその焦燥感を表に出すことはない。少なくとも月島はそう分析している。  その日の外来は十一時頃まで至極順調であった。これは決して珍しくない。外来のペースが乱れるのは、いつもこの辺りからなのだ。診察に難渋する症例や診察前に行った検査結果が思いのほか悪い症例が不思議と続く。月島や旭は百も承知している。そんな時でも月島は、次の患者が入ってくる前に敢えて旭に話しかける。 「順調だね」 「そうですか?」 「ところでこの写真、見てくれない?」 「はい」 「どう、これ?」 「う~ん︙︙」 「何点?」 「六点くらいでしょうか」  その写真は月島が今朝の出勤中に撮影した路地裏の一コマである。夜明け前で辺りは暗いが、民家の一つの壁が街灯で黄色く照らし出されている。月島のスマホは中国の中堅ブランド製で、しか...

第2話 始発

<  月島はいつも始発電車で病院に向かう。正確には電車ではなくモノレールであるが。そして彼の乗る駅は始発駅である。つまり始発駅の始発電車である。そのモノレールは五時三十三分に発車し、その十分ほど前から駅に停車している。車両は四両編成で、月島は前から二両目に乗ることが多い。特にこだわりが強い性格ではないが、一両目に乗り込むことはない。モノレールはその構造上、正面衝突の可能性はまずないが、かなりの高所を走行している。脱線時は地上十メートルから飛び降りるようなものだ。先頭車両への衝撃は相当である。もちろん二両目も落下することに変わりはないが、その時は一両目がクッションになってくれる。月島はそんな風に思っている。  始発電車は乗客がまばらである。特にこの時期、辺りはまだ薄暗く、氷点下になれば駅と降車場を繋ぐ陸橋にはうっすらと氷が張る。好き好んでやってくる奴など誰もいない。皆、この始発に乗らなければならない何らかの理由があるのだ。そして彼らは自然と顔見知りになる。とは言っても言葉を交わすことはない。どこに住んでいるのか、どこに行くのか、何をしているのか、月島は何も知らない。  こんな始発電車も、多くの学生で賑わうことがある。彼らは皆、楽しそう騒いでいる。きっと修学旅行なのだ。このモノレールは空港に繋がっているし、彼らは大きなスーツケースを慣れない手つきで運んでいる。そしてどういう訳か二両目に乗ってくることが多い。月島はモノレールの中でN Engl J Medの最新論文を読むことにしているため、落ち着いた環境が望ましい。だからそんな若者の集団に遭遇した時だけ、そっと三両目の車両に移動する。  月島は十年ほど前、通勤をマイカーからモノレールに変更した。そして暫くすると、二両目の後方ドアから入って、向かいにある長シートの左端をマイシートに決めた。優先座席を除くとシートはピンク色のしっとりとした布製で、少し柔らかめのクッションは快適とまでは言えないが、不快というほどのものでもない。もちろん公共機関のシートとしては合格である。月島はその場所を次第に気に入るようになった。  週に一~二度の頻度ではあるが、そのシートが他人に占拠されていることがあった。月島は仕方なく空いている別の席(ほとんどが空いている)に座るが、どうも居心地...

第1話 眼鏡

<  「忘れたか?」  救急外来に向かう長い廊下を歩きながら、月島はひとり呟いた。声に出すつもりはなかったが、思いのほか響いたような気がする。夜明け前の病院は本当に殺風景だ。薄暗く静まり返り、そして特にこの時期は冷えている。日中とは打って変わった、この無機質な空気感には全くうんざりさせられる。  月島は白衣の下に手を入れて確認してみた。いつもシャツの胸ポケットに軽めの老眼鏡をいれているのだ。やはり今回はそこに何も入っていない。右手からカシミヤの柔らかな肌触りが伝わってくるだけだ。ネイビーブルーのセーターを少し持ち上げて中を覗いてみたが、シャツの胸ポケットには何も入っていない。  念のため白衣のポケットも確認してみた。少しかじかむ右手で右ポケットを探ったが、病院から支給されている専用携帯があるだけだ。小さくて解像度の低いモニターの下に、十二個の物理キーが配列されているやつである。背面にはコードブルーなど緊急事態時の連絡先が記されたプラスチックシールが貼られている。その右上の端が少しめくれているため、擦るとカサカサした感触が指先に伝わってくる。取り出して確認しなくても院内電話だと認識できる。  次に左手を白衣の左ポケットに入れてみた。こちらにはプライベート用の携帯電話が入っていた。昨年購入した中国の中堅ブランド製で──おまけにローエンドモデルであるため──5Gには未対応だ。同僚の医師にはiPhoneユーザーが多いが、月島には同調しようという考えはない。今の携帯を特段気に入っているわけではないが、別段不満も感じていない。  「やっぱりないな」  救急室に入る扉の前で、月島はもう一度、そして今度は意識的に呟いてみた。しかしその声は全くと言っていいほど響かない。少なくとも音として月島の耳には届かなかった。救急室の周辺は、医局前の廊下と異なり何かと騒がしいからだ。昼夜を問わずさまざまな人間が出入りする。医師や看護師、事務員などの院内スタッフに加えて、患者や家族、友人、同僚等もいる。皆が慌ただしい。そこに救命救急士も加わる。月島が勤務する総合病院には一晩に十台以上の救急車がやってくるのだ。そんな喧騒の中では、もともと大きな声の持ち主とは思えない月島のつぶやきなど瞬く間にかき消されてしまう。 ...