第6話 雲桜
月島は自宅のおよそ二百メートル手前にある六十段の階段を前にふと立ち止まった。特に意味があるわけではない。ただ何となく立ち止まっただけである。そして、おもむろに階段を見上げた。両側には桜の木が等間隔に植えられているが、この時期は全く見栄えがしない。春の花盛でもなければ秋の紅葉でもない。黒っぽい樹幹が無表情に並んでいるだけである。芽吹きを感じるにはまだ数カ月を要するだろう。空には雲が部分的にかかっていて、おそらく満月ではない月が半分程顔をだしている。闇夜ではないが、明るいはとても言えない。心許ない月明りが、樹幹をうっすらと照らし出している。
月島はズボンの左後ろのポケットに入れているスマホを取り出して、シャッターを押した。これにも特に意味があったわけではない。ほとんど無意識に写真を撮ったのだ。彼の携帯電話は中国の中堅メーカーの中堅モデルであるためか、あまりきれいな写真が撮れない。設定を変更すれば画質が向上するのかもしれないが、現状に不満がないため初期設定のまま使用している。しかし月島は最近、カメラアプリに夜景モードがあることに気づいた。不思議なことに、シャッター開放時間が長いにも関わらず、手ぶれが起きないのだ。出来上がった写真が、自身の眼で認識している実際の風景とは少し違う点も悪くない。うまく表現できないが、昭和の下町を舞台にした映画「三丁目の夕日」のような感じに仕上がるのだ。
撮ったばかり写真をスマホの画面で確認して少し驚いた。黒い桜の幹が銀色に輝き、その枝先には空の雲がまとわりついている。まるで月夜に照らされた夜桜だ。
そして月島は突然、映画「メメント」を思い出した。なぜ映画なのかは分からない。そしてどうしてこの映画なのかも分からない。確かに「メメント」は月島が愛している映画の一つだ。今までに少なく見積もっても三回は見ている。もっともオリジナルの英語版での視聴だから細かいあらすじには自信がない。この物語は複雑なストーリで、おまけに時間を逆行して物語が進行する──つまり起承転結の結から始まって、起に遡っていくのである。そしてこの数奇な映画のように、数奇だった今週が頭の中で再現され始めたことに月島は気づいた。陳腐な表現で言えば、まさに走馬灯の如きである。異なる世界線に迷入したとも表現できるだろうか。もちろん月島の意識はしっかりしている。足の動きも、写真をとった一瞬以外は止めていない。桜並木の階段を一段ずつ上り続けているのだ。
*
前日。地域の医師会と合同カンファレンスを開催した。代表世話人は月島で、いつも多忙な医師会の会長らとの日程調整に苦労する会だ。本来は前年の秋に開催する予定であったが、会長の一人の日程がどうしてもつかずに延期していた。当日月島はオープニング・リマークスを行う予定であった。そのためのスライドも十枚程度を用意していた。いつも通り開催一時間前には会場のホテルに入った。集まるのは役割を担う会長や演者らだけで、現地の参加者はいない。聴衆はすべてウェブ視聴なのである。会場の設営に必要な十名ほどのスタッフを加えても二十人に満たない。しかし到着すると受付はなく、中継ルーム前にあるソファーに二人のスタッフが待機しているのみであった。月島はコートと荷物を手渡す時に、フォーラムがすでに始まっていることを聞かされた。どうやら月島は開始時間を一時間遅くスケジュールに登録していたようだ。前日の夕方にスタッフから念を押されていた記憶があるが、残念ながら耳には届いていなかった。月島は凍り付いた。
会場に通じる扉を開けて深々と頭を下げた。下を向いているので、皆の視線が集まったかどうかは分からない。自分の席に案内されたが、すでに公演は始まっている。演者の言葉は全く頭に入ってこない。喉は乾ききっているが、テーブルに置いてあるグラスの水に手が出ない。運ばれてきたサンドウィッチやコーヒーも同様である。「今夜は寝られないな」と月島は思った。特に隣の会長は礼儀にとても厳しい。月島のオープニング・リマークスはクロージング・リマ―クスに差し替えられた。会が終了すると同時に、月島は参加していただいた皆に丁寧に謝罪して回った。どういう訳だか恐れていた会長はとても上機嫌であった。月島がとても忙しい身であることは十分に知っている。そして時間にルーズでないことも分かっている。会長は「月島が事故にあったのでは?」と心配していたようだ。単なる開始時間の勘違いであることを正直に伝えて長く頭を下げた。フォーラム自体は多くの方に視聴していただき大成功であったが、月島の心の中の霧は晴れなかった。ベットに入ると、予想に反して(自分でも驚くほど)すぐに眠りに落ちた。しかし、いつもとは異なり夢を見ることはなかった。
二日前。月島の外来は順調であった。もちろん混雑しているが、予定からの遅れは十五分程度である。つまり十時から十時半の間に予約している患者は全員、十時四十五分までに診察が終わるということである。もっともこれは医療サイドに立った立場から見た判断であって、患者目線とは少し異なる。十時なのに診察が十時四十五分なら一時間近くも遅れていると感じるかもしれない。スマホが普及して、ある程度の時間つぶしができるようになったため、外来の遅れで苦情を言われることは以前よりも確実に減っている。月島の勤務するモカネ病院では無料WiFiが使えることも、患者不満の低減に貢献しているかもしれない。しかしその日、事件が起きた。月島の外来をサポートする医師事務の旭(アサP)が、診察室から待合室に出た直後のことである。
「こらボケ、アホ。もう十一時や」
荒々しい怒鳴り声が診察室の薄いドア越しに聞こえてきた。あの声は月島が長年見ている心疾患の患者だ。以前はそうでもなかったと思うが、最近は言葉が乱暴になってきた。もちろん、今回のような暴言を発したことは初めてのことである。その方の予約は十時半から十一時であった。三十分に三名の予約があり、その中で一番最後だ。月島は、その患者の入室時に診察が遅くなったことを詫びたが、本人は腹の虫がおさまらない。丁寧とは思えない言葉で不平を述べ続けている。患者の状態が長年安定しているため、月島はかかりつけ医での継続加療を提案した。患者は少し驚いた表情をしたが、月島は淡々と説明した。最終的に、次回三ヵ月後にもう一度だけ診察して、その後は自宅近くのクリニックで加療を継続することになった。入室時とは打って変わり、患者は言葉少なげに診察室を後にした。月島の隣でカルテ入力をしている医師事務のアサPは表情を変えない。月島は暴言を吐かれたときに彼女が発した言葉を思い出した。確か「よろしくお願いします」だった気がする。本人に問うと、聞きなれない言葉にびっくりして思考回路が停止してしまったそうだ。彼女には申し訳ないが、月島は表情に出さずに笑った。
三日前。朝の循環器内科メンバーとのミーティングで、次回の循環器学会の応募の締め切りが今日の正午であることを皆と共有した。最近は期限を守る医師が少なくなったためか、締め切りが少なくとも一度は延長される。新たな締め切りは通常、二週間後に設定される。それでも応募数が少ないと再延長されることも稀ではない。学会を開催する会頭としては、応募数が少ないことは喜ばしいことではないようだ。政治家で得票数が少ないことが恥ずかしいことと同じなのだろうか。会長を担当するのは通常、大学の循環器内科の教授であるため、譲れない点なのかもしれない。月島は応募の締め切りが延長されると分かっていても、必ず最初に設定された期限内に応募することにしている。しかし今回はなぜか抄録も未作成であった。幸い今日は午前中に一時間ほどの余裕があったため、急いで抄録を書き上げた。投稿テーマは前もって決めていたのだ。そして締め切りの十二時前にネットで応募しようとしたが、当該ページにアクセスできない。苦闘した末に、抄録の応募自体がまだ始まっていないことに気が付いた。そして締め切りがちょうどひと月先であることにも気が付いた。
こんな事は初めてである。実はこの日には初めてのことがもう二つあった。一つ目は朝の救急室でのタイムアウトで、テルが眼鏡をしていたことだ。テルとは、患者支援センター室長の姫隘路である。最近、ジョイマン風のラップネタにはまっているようであるが、本家と同様に滑っているから周囲はたまらない。その彼が初めて眼鏡をかけていたのである。黒縁の丸メガネで、少し高級感が漂っている。似合っているとは思わないが、似合っていないとも言えない。月島はテルに尋ねた。
「どうして眼鏡?」
「ものもらいです。ほら、左目の下にあるやつです」
医学的には麦粒腫あるいは霰粒腫というが、眼科医でない限りそんな言葉は使わない。両者の異なる病態は、何度聞いても忘れてしまうからだ。ものもらいができたから眼鏡をしているということは、テルは普段、コンタクトレンズを使用しているのであろうか。月島は聞いてみようかとも思ったが、つまらないラップ調で返されたら面倒だからやめた。そしてもう一つの初めてが、その日はアサPも眼鏡をかけていたことだ。彼女の方はものもらいではなくて、コンタクトレンズで角膜に傷がついたそうだ。アサPの眼鏡も、テルと同様にフレームが大きな黒縁であった。「よりによってテルとペアにならなくてもいいのに︙︙」と月島は思った。彼女に伝えても反応に困るだろうと考え、口には出さなかった。
四日前。月島が代表世話人を務める病診連携のカンファレンスが駅前のホテルで開催された。開始時刻の三十分前には世話人会がある。月島はいつも余裕をもって一時間前には会場入りするようにしているが、病院業務が立て込んだため、到着は世話人会の三十分前になった。驚いたことに受付の設営もまだできていない。とりあえず本会場に入って、自身の講演スライドを確認することにした。前もって渡しておいたパワーポイントのファイルを立ち上げたが、なぜか動画ファイルがうまく作動しない。こんな時に限ってUSBで予備のデータを持参していない。USBの件は病院の副院長室を出てレベーターに乗った時に気が付いたが、大丈夫だろうと高をくくったのが裏目に出た。ファイルをネット上のクラウドにおいておく習慣も、なぜか今回に限って割愛していた。動画ファイルを静止画に置き換えて講演することは可能である。しかしホテルから病院まで往復してもなんとか間に合うかもしれない。月島はホテル会場を後にしてエレベーターに向かったが、結局、到着したエレベーターには乗らなかった。今日の悪い流れならば、きっと渋滞などで間に合わないと思ったからだ。世話人会に遅刻するよりも、動画を欠いた静止画での講演の方がまだましだ。
月島は踵を返して会場の別室に入った。設営スタッフとたわいもない話をしながら、他の世話人の到着を待ったがなぜか誰も来ない。「今日は俺の日じゃないな」とつぶやきながら、自分ではどうすることもできないこの状況に身を任せることにした。世話人会の議題を一人で確認していたときに、月島はタイムテーブルが妙であることに気が付いた。月島は開始時刻を一時間以上も勘違いして、二時間も前に会場入りしていたのだ。道理で説明スタッフも妙に落ち着いているはずだ。月島は時間を勘違いしていたことを周囲に告げて、データを取りに病院まで帰ることにした。往路も復路もすこぶる円滑であった。世話人会も大きな問題なく終了した。当日の本会はいつになく多くの医師が参加して、活発な質疑応答でとても盛り上がった。ただ、閉会後に乗り込んだ帰りのタクシーの中では、いつものようにポケモンGoをする気にはなれなかった。
*
月島は六十段の階段をちょうどのぼり終えたところで、現実の世界線に戻った気がした。走馬灯は、もう見えない。後は歩行者専用のなだらかな下り道を進むだけである。その突き当りの右手が我が家だ。
きっと家族と愛犬のシュシュが待っている。
月島はズボンの左後ろのポケットに入れているスマホを取り出して、シャッターを押した。これにも特に意味があったわけではない。ほとんど無意識に写真を撮ったのだ。彼の携帯電話は中国の中堅メーカーの中堅モデルであるためか、あまりきれいな写真が撮れない。設定を変更すれば画質が向上するのかもしれないが、現状に不満がないため初期設定のまま使用している。しかし月島は最近、カメラアプリに夜景モードがあることに気づいた。不思議なことに、シャッター開放時間が長いにも関わらず、手ぶれが起きないのだ。出来上がった写真が、自身の眼で認識している実際の風景とは少し違う点も悪くない。うまく表現できないが、昭和の下町を舞台にした映画「三丁目の夕日」のような感じに仕上がるのだ。
撮ったばかり写真をスマホの画面で確認して少し驚いた。黒い桜の幹が銀色に輝き、その枝先には空の雲がまとわりついている。まるで月夜に照らされた夜桜だ。
そして月島は突然、映画「メメント」を思い出した。なぜ映画なのかは分からない。そしてどうしてこの映画なのかも分からない。確かに「メメント」は月島が愛している映画の一つだ。今までに少なく見積もっても三回は見ている。もっともオリジナルの英語版での視聴だから細かいあらすじには自信がない。この物語は複雑なストーリで、おまけに時間を逆行して物語が進行する──つまり起承転結の結から始まって、起に遡っていくのである。そしてこの数奇な映画のように、数奇だった今週が頭の中で再現され始めたことに月島は気づいた。陳腐な表現で言えば、まさに走馬灯の如きである。異なる世界線に迷入したとも表現できるだろうか。もちろん月島の意識はしっかりしている。足の動きも、写真をとった一瞬以外は止めていない。桜並木の階段を一段ずつ上り続けているのだ。
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前日。地域の医師会と合同カンファレンスを開催した。代表世話人は月島で、いつも多忙な医師会の会長らとの日程調整に苦労する会だ。本来は前年の秋に開催する予定であったが、会長の一人の日程がどうしてもつかずに延期していた。当日月島はオープニング・リマークスを行う予定であった。そのためのスライドも十枚程度を用意していた。いつも通り開催一時間前には会場のホテルに入った。集まるのは役割を担う会長や演者らだけで、現地の参加者はいない。聴衆はすべてウェブ視聴なのである。会場の設営に必要な十名ほどのスタッフを加えても二十人に満たない。しかし到着すると受付はなく、中継ルーム前にあるソファーに二人のスタッフが待機しているのみであった。月島はコートと荷物を手渡す時に、フォーラムがすでに始まっていることを聞かされた。どうやら月島は開始時間を一時間遅くスケジュールに登録していたようだ。前日の夕方にスタッフから念を押されていた記憶があるが、残念ながら耳には届いていなかった。月島は凍り付いた。
会場に通じる扉を開けて深々と頭を下げた。下を向いているので、皆の視線が集まったかどうかは分からない。自分の席に案内されたが、すでに公演は始まっている。演者の言葉は全く頭に入ってこない。喉は乾ききっているが、テーブルに置いてあるグラスの水に手が出ない。運ばれてきたサンドウィッチやコーヒーも同様である。「今夜は寝られないな」と月島は思った。特に隣の会長は礼儀にとても厳しい。月島のオープニング・リマークスはクロージング・リマ―クスに差し替えられた。会が終了すると同時に、月島は参加していただいた皆に丁寧に謝罪して回った。どういう訳だか恐れていた会長はとても上機嫌であった。月島がとても忙しい身であることは十分に知っている。そして時間にルーズでないことも分かっている。会長は「月島が事故にあったのでは?」と心配していたようだ。単なる開始時間の勘違いであることを正直に伝えて長く頭を下げた。フォーラム自体は多くの方に視聴していただき大成功であったが、月島の心の中の霧は晴れなかった。ベットに入ると、予想に反して(自分でも驚くほど)すぐに眠りに落ちた。しかし、いつもとは異なり夢を見ることはなかった。
二日前。月島の外来は順調であった。もちろん混雑しているが、予定からの遅れは十五分程度である。つまり十時から十時半の間に予約している患者は全員、十時四十五分までに診察が終わるということである。もっともこれは医療サイドに立った立場から見た判断であって、患者目線とは少し異なる。十時なのに診察が十時四十五分なら一時間近くも遅れていると感じるかもしれない。スマホが普及して、ある程度の時間つぶしができるようになったため、外来の遅れで苦情を言われることは以前よりも確実に減っている。月島の勤務するモカネ病院では無料WiFiが使えることも、患者不満の低減に貢献しているかもしれない。しかしその日、事件が起きた。月島の外来をサポートする医師事務の旭(アサP)が、診察室から待合室に出た直後のことである。
「こらボケ、アホ。もう十一時や」
荒々しい怒鳴り声が診察室の薄いドア越しに聞こえてきた。あの声は月島が長年見ている心疾患の患者だ。以前はそうでもなかったと思うが、最近は言葉が乱暴になってきた。もちろん、今回のような暴言を発したことは初めてのことである。その方の予約は十時半から十一時であった。三十分に三名の予約があり、その中で一番最後だ。月島は、その患者の入室時に診察が遅くなったことを詫びたが、本人は腹の虫がおさまらない。丁寧とは思えない言葉で不平を述べ続けている。患者の状態が長年安定しているため、月島はかかりつけ医での継続加療を提案した。患者は少し驚いた表情をしたが、月島は淡々と説明した。最終的に、次回三ヵ月後にもう一度だけ診察して、その後は自宅近くのクリニックで加療を継続することになった。入室時とは打って変わり、患者は言葉少なげに診察室を後にした。月島の隣でカルテ入力をしている医師事務のアサPは表情を変えない。月島は暴言を吐かれたときに彼女が発した言葉を思い出した。確か「よろしくお願いします」だった気がする。本人に問うと、聞きなれない言葉にびっくりして思考回路が停止してしまったそうだ。彼女には申し訳ないが、月島は表情に出さずに笑った。
三日前。朝の循環器内科メンバーとのミーティングで、次回の循環器学会の応募の締め切りが今日の正午であることを皆と共有した。最近は期限を守る医師が少なくなったためか、締め切りが少なくとも一度は延長される。新たな締め切りは通常、二週間後に設定される。それでも応募数が少ないと再延長されることも稀ではない。学会を開催する会頭としては、応募数が少ないことは喜ばしいことではないようだ。政治家で得票数が少ないことが恥ずかしいことと同じなのだろうか。会長を担当するのは通常、大学の循環器内科の教授であるため、譲れない点なのかもしれない。月島は応募の締め切りが延長されると分かっていても、必ず最初に設定された期限内に応募することにしている。しかし今回はなぜか抄録も未作成であった。幸い今日は午前中に一時間ほどの余裕があったため、急いで抄録を書き上げた。投稿テーマは前もって決めていたのだ。そして締め切りの十二時前にネットで応募しようとしたが、当該ページにアクセスできない。苦闘した末に、抄録の応募自体がまだ始まっていないことに気が付いた。そして締め切りがちょうどひと月先であることにも気が付いた。
こんな事は初めてである。実はこの日には初めてのことがもう二つあった。一つ目は朝の救急室でのタイムアウトで、テルが眼鏡をしていたことだ。テルとは、患者支援センター室長の姫隘路である。最近、ジョイマン風のラップネタにはまっているようであるが、本家と同様に滑っているから周囲はたまらない。その彼が初めて眼鏡をかけていたのである。黒縁の丸メガネで、少し高級感が漂っている。似合っているとは思わないが、似合っていないとも言えない。月島はテルに尋ねた。
「どうして眼鏡?」
「ものもらいです。ほら、左目の下にあるやつです」
医学的には麦粒腫あるいは霰粒腫というが、眼科医でない限りそんな言葉は使わない。両者の異なる病態は、何度聞いても忘れてしまうからだ。ものもらいができたから眼鏡をしているということは、テルは普段、コンタクトレンズを使用しているのであろうか。月島は聞いてみようかとも思ったが、つまらないラップ調で返されたら面倒だからやめた。そしてもう一つの初めてが、その日はアサPも眼鏡をかけていたことだ。彼女の方はものもらいではなくて、コンタクトレンズで角膜に傷がついたそうだ。アサPの眼鏡も、テルと同様にフレームが大きな黒縁であった。「よりによってテルとペアにならなくてもいいのに︙︙」と月島は思った。彼女に伝えても反応に困るだろうと考え、口には出さなかった。
四日前。月島が代表世話人を務める病診連携のカンファレンスが駅前のホテルで開催された。開始時刻の三十分前には世話人会がある。月島はいつも余裕をもって一時間前には会場入りするようにしているが、病院業務が立て込んだため、到着は世話人会の三十分前になった。驚いたことに受付の設営もまだできていない。とりあえず本会場に入って、自身の講演スライドを確認することにした。前もって渡しておいたパワーポイントのファイルを立ち上げたが、なぜか動画ファイルがうまく作動しない。こんな時に限ってUSBで予備のデータを持参していない。USBの件は病院の副院長室を出てレベーターに乗った時に気が付いたが、大丈夫だろうと高をくくったのが裏目に出た。ファイルをネット上のクラウドにおいておく習慣も、なぜか今回に限って割愛していた。動画ファイルを静止画に置き換えて講演することは可能である。しかしホテルから病院まで往復してもなんとか間に合うかもしれない。月島はホテル会場を後にしてエレベーターに向かったが、結局、到着したエレベーターには乗らなかった。今日の悪い流れならば、きっと渋滞などで間に合わないと思ったからだ。世話人会に遅刻するよりも、動画を欠いた静止画での講演の方がまだましだ。
月島は踵を返して会場の別室に入った。設営スタッフとたわいもない話をしながら、他の世話人の到着を待ったがなぜか誰も来ない。「今日は俺の日じゃないな」とつぶやきながら、自分ではどうすることもできないこの状況に身を任せることにした。世話人会の議題を一人で確認していたときに、月島はタイムテーブルが妙であることに気が付いた。月島は開始時刻を一時間以上も勘違いして、二時間も前に会場入りしていたのだ。道理で説明スタッフも妙に落ち着いているはずだ。月島は時間を勘違いしていたことを周囲に告げて、データを取りに病院まで帰ることにした。往路も復路もすこぶる円滑であった。世話人会も大きな問題なく終了した。当日の本会はいつになく多くの医師が参加して、活発な質疑応答でとても盛り上がった。ただ、閉会後に乗り込んだ帰りのタクシーの中では、いつものようにポケモンGoをする気にはなれなかった。
*
月島は六十段の階段をちょうどのぼり終えたところで、現実の世界線に戻った気がした。走馬灯は、もう見えない。後は歩行者専用のなだらかな下り道を進むだけである。その突き当りの右手が我が家だ。
きっと家族と愛犬のシュシュが待っている。