第9話 幸運

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 その日は午後の一時前に外来がようやくひと息ついた。あとは採血や心エコー図などの検査を追加した数名の患者が残るだけだ。結果を待つ間、いつものように循環器内科医の月島と補助事務員の旭(あさP)がたわいもないことを話し始めた。
 「そういえば昨日、早朝に家を出たとき、空からポトンと何か落ちてきたんんだ」
 月島が地面をみると百円玉くらいの新鮮な白い跡が付いている。今しがた上から落ちてきたと言わんばかりのやつだ。空を見上げると頭上にある電線の上に数匹の鳥がとまっている。紺色でお腹の部分が白っぽい。嘴周囲に赤い部分があるかどうかは見えないが、月島の知っている鳥の中から選ぶとなると燕になる──もっとも他に知っている鳥といえば、スズメと鳩とカラスぐらいだが。鳥の種類が何であれここではその同定が重要なわけではない。落ちてきた物体がフンだと思われることが大切なのだ。そして月島はそのフンが頭に落ちなかったことに感謝した。白いフンが黒い髪の毛につくととても目立ってしまう。きれいに取りきるには時間がかかる。そしていくら拭いても不快な臭いは残ってしまう。あと一歩、いや半歩前にいたら、この厄介な代物の直撃を食らっていただろう。運があったなと思った。そして地面に落ちて丸く広がった白いフンを月島はそっと右足で踏んだ。
 ここまで月島が話して、無表情に聴いていたアサPがようやく口を開いた。
 「それって、運が付くってやつですよね」
 月島は照れたように少しだけ頬を緩めてゆっくりと頷いた。月島は科学的な人間で験を担ぐことを良しとは思っていない。フンが付いて運が開けるなんて科学的な根拠に全く欠けている。仮にそのようなことが起こったとしても、因果関係のない単なる偶然であって、再現性はないに決まっている。数学的にも、統計学的にも、両者には何の関係もないことは分かり切っている。しかし月島は自分の中に、もう一人の別の自分がいることも知っている。「因果関係なんてどうでもいい。フンが付いて運がつくなんて楽しいじゃないか」と、こんな風に考える自分だ。だからそっとフンを踏んだのだ。こんな幼稚な自分を、科学的なもう一人の月島が馬鹿にすることはない。本当にどっちだっていいことなのだから︙︙

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 「そして病院に到着したとき別の面白いことが起こったんだ」
 月島は続ける。アサPは黙って聞いている。
 月島はいつも始発電車に乗るため、モカネ病院に到着するのは早朝だ。病院の正面入り口は閉鎖され、日中とは打って変わって静まり返っている。もちろん周囲に人影はない。月島は一日のごくわずかな時間にだけ見せる都会の大病院のそんな顔が好きだ。建物の周囲にはたくさんの樹木が植えられている。そしてご丁寧に、各々の樹木には名前や属性を記したプレートが備え付けられている。地面から延びる四角柱の先端にプレートが付いていることもあれば、木の幹にスプリングを介してプレートがぶら下がっている場合もある。月島は病院の正面玄関前から北側にある職員専用口に回るため、さまざまな樹木とプレートを見ることになる。しかしこれらの樹木の名前は一切、覚えていない。というより覚えることができない。眼にはするがそのまま脳を通り越して昇華するように消え去ってしまう。おそらく何千回も同じ経路を通っていると思うが、どこに樹木があって、どこが花壇になっているかさえ思い出せない。ぼんやりと木々に囲まれた中に病院が立っていることが頭に浮かんでくるだけだ。我ながらなんて貧弱な記憶力だと情けなく思ったこともあったが、興味のないことはこんなものだと変に納得している。
 そんなことを考えながら従業員用の裏口に向かって歩いていると、ふと足元に赤と白に咲きほこった花木の横のプレートに大きな虫が羽を休めていることに気が付いた。蝶ではないし、蛾ともいえない不思議な生き物だ。翅がセミのように透けているが、もちろん蝉ではない。体の頭半分が緑で、残りが黄色い蝉なんで聞いたことがない。そしてその生き物──ここでは仮に蛾としておく──がプレートの文字の一部を隠していたのだ。見える文字が「つき」だから、その蛾が隠して文字は「さ」だろう。さつきが赤や白などの美しい花をつけること、そしてさつきがこの時期に開花することくらい、さすがの月島でも知っている。
 「『さつき』の『さ』が隠れたから『つき』︙︙運が付くだよ」
 そういって月島は少し照れながらあさPを見たが、彼女は黙っている。月島はその日、二度目の幸運の印だったってことがうまく伝わっていないとは思わない。彼女はとてもスマートだからそんなことは話の途中で既に気が付いていただろう。彼女からの反応を待つが、聞こえる音は隣の診察室が患者を呼び込むための番号アナウンスだけだ。沢山しゃべって喉がかわいたためか、無反応の気まずさを打ち消すためか、それとも単なる気まぐれなのかは分からないが、月島は電子カルテの後ろに置いてあるラベルの貼っていない小さいペットボトルから、ほうじ茶を少し飲んだ。電子カルテを確認すると、待っていた患者の検査結果が出ていた。

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 「何かいいことがあったのですか?」
 突然にあさPが言った。すぐには理解できなかったが、昨日の早朝、月島に起こった二つの出来事に関することだけは間違いない。
 「普通あるよね。でもなかった」
 月島はそう言ったものの、心の中では「普通ないよね、別段いいことなんて。だって単なる迷信だし」と呟いた。しかし彼女の反応は意外なものであった。
 「じゃ、これからですね」
 月島はあさPの性格を今一つ捉えかねている。楽天家ではないが、悲観論者とは違う。積極的でもないが、消極的ともいえない。もちろん快活ではないが、地味とは思っていない。彼女がサポートをしてくれるようになって一年以上が経過していると思うが、彼女に関して月島が自信を持って言えることは「彼女はよく分からない」ということだ。
 「これからか︙︙楽しみだな」
 月島はちょっと期待するような声色を使って返答してみた。もちろん彼女が、月島のそんな演技を見透かしているということは彼も充分に承知している。でもここでは前向きな言葉を実際に口にする方がいいような気がした。だからやってみた。特に理由はないが、なんとなくその時はそう思った。
 「でも今日は前向きだね」
 月島は尋ねた。
 「そうですか?」
 彼女は首を少し傾けたように見えた。でも不満そうな感じはしなかった。

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 結果がすべて出そろったため、電子カルテで残りの患者に待機マークをつけた。すかさず院内のいたることに設置されているシステムが連動して、診察が近いことを知らせる。もちろん名前ではなくて番号だ。しかもランダムの番号である。名前を呼ばないのは個人情報の保護であるが、連続番号でない理由は、診療科と関連づけないための配慮だそうだ。予約時間が早い患者が三桁の番号で、遅い診察時間の患者が二桁の番号になることもある。こんな規則性のない番号は混乱の原因になると思ったが、不思議なことに特に問題なく運用できている。
 受診当日に採血や心エコー図などの検査を追加すると、患者は一~二時間を余計に病院で過ごさなければならない。そんな時、月島はいつも結果の説明時に不便をかけたことを詫びるようにしている。もっとも丁寧に見てもらったと感謝されることがほとんどで、不満を言われることはめったにない。スマホで時間をつぶすことが容易になったこと、病院が無料のWifiを提供していること、そしてひょっとすると勤務医の過酷な労働環境を知る人が多くなったことなどが、医療サイドにとっていい方向に作用しているのかもしれない。もっとも内心は不満であるが、医師に嫌われるとちゃんと診察してもらえなくなるのではという患者心理が働いているだけかもしれないが︙︙
 本日、追加検査を行った患者はすべて、入院を要するほどの重症ではなかった。そして午後の二時前にはその日の外来患者の診察は、当日紹介や病棟対診の症例も含めて、すべて終了した。もちろん月島が勤務するモカネ病院は急性期病院であるため二十四時間対応する必要がある。しかし十二時を過ぎた症例は当日の紹介症例であっても、月島ではなくて、午後の救急当番が担当することになっている。重症例や救急車で搬入された症例は救急科の医師が救急室で対応する。月島はあさPのサポートにいつものようにお礼を言った後、診察室のキーボードやマウスを定位置に戻した。座っていた椅子を元に戻して診察室を後にしようとした。
 「そうだ︙︙あれだ」
 月島は自分でも驚くほど無意識に呟いていた。
 「何ですか? 急にあれって︙︙」
 あさPは聞き返した。
 月島はしまったばかりの椅子をもう一度引き出して、座りなおしてから昨夜のことを語りだした。

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 それは月島が、週に一回外勤で行っている夜診でのことである。彼は隣接した街の有床診療所で循環器外来を担当しているのだ。症例は五十代半ばの糖尿病を患う女性で、安静時の胸部違和感を自覚するため受診した。座位で内頚静脈を視認せず、吸気負荷後にも拍動を認めなかった。心音も正常で第三音などの過剰音はなかったため、心不全は否定的である。その場で行った心電図や心エコー図にも特記すべき異常はなかった。女性としては冠動脈疾患が出現するには少し若く、症状も典型的な労作時のものではなかったが、糖尿病があり最近まで喫煙していたようだ。ご本人と相談して、月島が勤務しているモカネ病院で冠動脈CTを行うことになった。そして翌週、つまり昨日に結果を説明する予定にしていたのだ。
 再診時の患者の表情は何故か少し暗かった。月島はモカネ病院から送られてきた冠動脈CTの結果を確認した。四枚のレポートから成り、十枚以上の画像が添付されている。モカネ病院からはDVDでデジタルデータも送られてきているが、カルテがすべて電子化されていないシステムを使用している施設は少なくない。月島が週に一回の外勤をしている診療所もそんな施設の一つであった。カルテは部分的に電子化されているが、他施設の画像をデジタル取り込みはできない。月島はレポートに書かれている所見を慎重に読みすすめた。
 幸い冠動脈に有意狭窄は存在しなかった。冠動脈とは心臓の周囲に存在する動脈で、心筋に血液という栄養成分を運んでいる。この動脈がプラークと呼ばれる脂質などで細くなると、心筋への血液の供給が不十分になり、心筋虚血という状態に陥り胸痛という症状を惹起する。そして心筋虚血は心臓のエネルギー需要が増加する労作時に生じることが多い。有意狭窄とは概ね直径で七十五%以上の狭さを意味することが多い。その女性の狭窄は最大でも二十五%程度であったため、狭心症は考えにくい。もっともスパスムと呼ばれる、血管が痙攣して内腔が一過性に狭くなる病態もあるが、この場合、カテーテル手術は不要で血管を拡張する薬剤で対応すれば事足りる。
 冠動脈には特に大きな問題がないことを聞いた患者は、意外にもあまり嬉しそうな反応を示さなかった。症状が出現する頻度も稀なのでニトロ製剤を処方して、胸痛時には使用すること、改善がない場合は五分ごとに三度まで使用すること、それでも改善がないようなら救急車を呼ぶことなどを説明した。ちなみにニトロとは爆弾で使われるニトログリセリンと同じだ。面白い逸話があって、爆弾を作る工場で働く作業員には狭心症の頻度が少ないことから、ニトロの血管拡張作用が分かったそうだ。ともかく循環器内科は今回で終診になるため、その女性はお礼を言ってから診察室をゆっくりと出て行ったが、雰囲気やはり明るくはない。平易な言葉を使用したため、理解は得られているはずだ。心臓に大きな問題がなかったことは吉報であると思われるのだが︙︙
 月島は気になったが、冠動脈の写真にはやはり問題はなさそうだ。本日の診療はこの患者で終了だ。いつもより終了時間は遅くなったが、ようやく帰途に就ける。しかし月島はもやもやとした気持ちが何故か拭えなかった。一旦終了した電子カルテを(特に理由はないが)もう一度立ち上げた。そして四枚におよぶ冠動脈CTのレポートを読み返しはじめた。暫く経て突然血の毛が引く感じを覚えた。冷たい何かが首から肩に通り抜けるような感覚とでも言えようか、とにかくあまり経験したことがない冷や汗を伴う恐怖である。レポートの二枚目の欄外に、心臓外の所見として左乳房の腫瘍という記載を見つけたのだ。月島は乳がんの専門医ではないが、印刷された画像の右端に写っている境界が不明瞭なその腫瘍は乳がんの可能性を示唆する。慌てて看護師に、先ほどの女性をすぐに呼び戻してほしいと依頼した。
 幸いに患者は受付で会計処理をしているところであった。診察室に戻った女性に、月島は慎重に言葉を選びながら左乳房の腫瘍のこと、悪性疾患の可能性が否定できないこと、専門医での診察が望まれることなどをゆっくりと伝えた。患者は嬉しそうに──少なくとも先ほどの暗さはどこかへ飛んで行ったかのように──月島の眼を見ながら頷いた。どうやら本人は左胸のしこりに気が付いていたが、不安感が強く専門外来の受診にどうしても踏み切れなかったことを教えてくれた。今回の心臓CTでたまたま病変が見つかったため、これで専門クリニックを受診する決心がついたようだ。今回の検査で問題がなければ、乳腺クリニックに行くつもりは無かったと彼女は明言した。
 月島は早速、丁重な紹介状を知り合いの乳腺専門医に書いた(後日譚:やはり乳がんであったが早期であったため完治が望めると返書あり)。その患者は、結果に問題がないと知った先程とは異なり、癌の可能性があると伝えられた今回、心持ち嬉しそうに診察室を後にした。レポートのコメントを見落としていたとしたらと考えると、月島はとても怖くなった。昨日は本当についていたんだ。早朝の二つの出来事、フンとツキが彼を守ってくれたのだ。月島はすべてに感謝した。心に何とも言えない暖かさが広がって来るのを感じた。

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 ふと我に返った月島は目の前にいるあさPに気が付いた。そうだ、彼女に話していたんだ。
 「よかったですね」
 アサPは月島に言った。
 「迷信じゃなかったのですね」
 彼女はそう付け加えた。