第3話 外来
循環器内科外来の第一診察室で月島と旭が話している。時刻は朝の八時を少し回ったばかりだ。
「今日はどう?」
「はい。大変です」
「今日は多いの?」
「はい。今日も多いです」
「ちょっと焦っている?」
「はい。焦っています」
「パニックになりそう?」
「いえ、それはないです」
月島は都会にある総合病院の循環器内科の部長で、旭は医師の事務作業をサポートする専門職である。外来診察の開始時間は九時であるが、月島はいつも八時半から外来を開始する。よって旭も八時には診察室に来て準備を始める。そして二人は時々、短いやり取りをするのだ。
月島の外来はいつも混雑している。多くの定期フォロー患者に加えて、近隣のクリニックから月島を指名した紹介患者がかなりの数にのぼる。循環器外来の中でもその混雑ぶりは際立っている。人気があると言えば聞こえがいいが、喜んでばかりもいられない。いくら月島の的確で迅速な対応力をもってしても、時間を要する症例が続けば診察は遅れてしまう。そして救急科や総合診療科など他科からの当日紹介も少なくない。患者が入院している病棟からのコンサルトも頻繁だ。
患者も三十分程度の診察の遅れは多めに見てくれるが、一時間を超えたあたりから不満の声が聞こえだす。そこに重症例が重なると目も当てられない。そんな時、旭の焦りはピークに達するとおもわれるが、彼女がその焦燥感を表に出すことはない。少なくとも月島はそう分析している。
その日の外来は十一時頃まで至極順調であった。これは決して珍しくない。外来のペースが乱れるのは、いつもこの辺りからなのだ。診察に難渋する症例や診察前に行った検査結果が思いのほか悪い症例が不思議と続く。月島や旭は百も承知している。そんな時でも月島は、次の患者が入ってくる前に敢えて旭に話しかける。
「順調だね」
「そうですか?」
「ところでこの写真、見てくれない?」
「はい」
「どう、これ?」
「う~ん︙︙」
「何点?」
「六点くらいでしょうか」
その写真は月島が今朝の出勤中に撮影した路地裏の一コマである。夜明け前で辺りは暗いが、民家の一つの壁が街灯で黄色く照らし出されている。月島のスマホは中国の中堅ブランド製で、しかもローエンドモデルであるため、カメラの質が高いとはとても言えない。夜間に撮影した写真などは、光量不足からか被写体が何かすら分からことがある。もっとも月島はなぜかそこが案外気にいっている。
月島が撮影したくだらない写真を旭はいつも評価してくれる。今回の写真はなんとも言えない幻想的な雰囲気を醸し出していたため、高い評価を期待してしたのだ。思いのほか興味なさそうな彼女の反応を見て、月島は写真の説明を付け加えた。
「ゴッホの『夜のカフェテラス』なんだけど」
「そうですか︙︙」
旭の対応はいつも淡々としている。彼女自身の本来の性格なのか、あるいは後天的に獲得したものなのか。いずれにしても言葉による説明が必要な写真は大したものではない。美大卒の旭は以前、そんな風なことを月島に言った。
ちなみに十点満点の六点なら普通は合格と思うかもしれない。実際に月島も当初は悪くはないと思っていた。しかし旭は興味がなければいつも六点を付ける。五点や七点はない。一度だけ八点を付けてくれたことがあるが、この写真は珍しく旭のセンスに合致したようだ。写真の優れている点を言語化してくれた。そして改善点も教えてくれた。月島にとってはいつもと何ら変わりのない、夜明け前の密集した民家の路地裏を、低性能カメラで撮影しただけだったのだが︙︙
*
月島はこの写真をテルにも見せた。彼は患者支援センターを仕切っている優秀な事務員で、苗字は姫隘路である。名前にテルは一ミリも含まれていないが、月島は昔から彼のことをテルと呼んでいる(苗字の読み方が難しいからではない)。これは彼の趣味である5チャンネルから来ているが、際どいテーマのスレッドに関係するためここには記載しない。もちろん病院ではニックネームの使用は推奨されていないようであるが、月島はこのルールを完全に無視している。
「テル、この写真、どう思う?」
「何ですか、これ? 相変わらず画質が悪いですね」
「何点?」
「そうですね、三十点くらいでしょうか」
「これアサP、八点だったよ」
「それはすごいですね。でも何がいいんですか?」
テルの評価はいつも百点満点である。そしてアサPとは、旭が付ける十点満点のポイントのことだ。月島と姫隘路と旭の三人の間では、これらはすでに共通語になっている。姫隘路と月島は旭自身のこともアサPと呼んでいるが、どうも本人が嫌がっているようので最近は少し控えている。
月島にはアートのセンスはない。テルにもあまりないと月島は思っている。でも旭は違う。少なくとも彼女は大学で芸術を学んでいる。持って生まれたセンスもきっと違うのだろう。そうでなければ、月島の写真に対する旭のコメントに、これほど感心させられることはないはずだ。もっともコメントが得られること自体が稀ではあるが︙︙
彼女が自分自身を語ることはあまりない。よって月島にとって彼女はいまだに謎に包まれた若き女性である。なんと前職はテレビ局で小道具など美術部門を担当していたようだ。月島が彼女に関して他に知っていることといえば、読書が好きなこと、神道に興味があること(もっともこれは後に彼女が否定した)、そして昭和を愛しているらしいことくらいであった。
*
その日の外来はいつにもまして遅れた。心不全の緊急入院は月島の腹心である櫻木が手際よく対応してくれたが、診察室で月島をひどく罵った付き添いの男性には参った。長年フォローしている高齢患者の息子で、月島とは初対面である。患者の病態の説明を求められたのだが、一言では説明できない複雑な症例であった。循環器内科の疾患ならまだしも、線維筋痛症や精神疾患にも罹患している。すべて専門家にコンサルトしていたが、担当医と馬が合わずに結局月島のところに帰ってきたのだ。やむなく循環器内科で、循環器内科以外の多くの疾患を管理していたのであった。
月島のあいまいな説明に相手は納得するそぶりを見せない。怒りが募ってきたことが言葉の端々に感じられる。月島は言葉で説明することを諦め、なるだけ──あくまでも分かる範囲ではあるが──紙に記載することにした。プリンターから新しいA4の紙を一枚取り出すと、患者とその息子を背に机に向かって病名を一つひとつ書き出し始めた。
手間はかかるが、月島は淡々とペンを走らせる。十分ほどが経過したであろうか、月島は不意に手を止めた。その間、診察室の皆が無言であった。文字に埋め尽くされた紙を手渡した時には、男性の怒りは不思議と収まっていたようだ。説得を試みる言葉は往々にして相手の怒りを助長させる。かといって沈黙は時と場所を選ぶ。この男性への対応だけで一時間近くを要したが、何はともあれ相手が落ち着いてくれて良かった。診察室に怒鳴りあいは似合わない。
診察は予定から大幅に遅れているが、ちょっとした合間を見つけると月島は旭に声をかける。
「さすがに今日は焦っている?」
「大丈夫です」
「いや、追い込まれているだろう」
「ふっきれました。もう何も感じません」
「どういうこと?」
「失感情です」
「アレキシサイミアって言うんだっけ?」
「それはちょっと違います」
彼女は精神科クリニックでの勤務歴もあるため、そちらの方面には医師である月島よりもよほど明るい。その日は二人とも昼食をとらずに外来を継続した。もちろん隙をみて月島はくだらない質問を続ける。
結局、外来が終了したのは夕方遅くであった。月島は別段、疲れたとは思わなかった。そして旭のことを少し分かったような気がした。
「今日はどう?」
「はい。大変です」
「今日は多いの?」
「はい。今日も多いです」
「ちょっと焦っている?」
「はい。焦っています」
「パニックになりそう?」
「いえ、それはないです」
月島は都会にある総合病院の循環器内科の部長で、旭は医師の事務作業をサポートする専門職である。外来診察の開始時間は九時であるが、月島はいつも八時半から外来を開始する。よって旭も八時には診察室に来て準備を始める。そして二人は時々、短いやり取りをするのだ。
月島の外来はいつも混雑している。多くの定期フォロー患者に加えて、近隣のクリニックから月島を指名した紹介患者がかなりの数にのぼる。循環器外来の中でもその混雑ぶりは際立っている。人気があると言えば聞こえがいいが、喜んでばかりもいられない。いくら月島の的確で迅速な対応力をもってしても、時間を要する症例が続けば診察は遅れてしまう。そして救急科や総合診療科など他科からの当日紹介も少なくない。患者が入院している病棟からのコンサルトも頻繁だ。
患者も三十分程度の診察の遅れは多めに見てくれるが、一時間を超えたあたりから不満の声が聞こえだす。そこに重症例が重なると目も当てられない。そんな時、旭の焦りはピークに達するとおもわれるが、彼女がその焦燥感を表に出すことはない。少なくとも月島はそう分析している。
その日の外来は十一時頃まで至極順調であった。これは決して珍しくない。外来のペースが乱れるのは、いつもこの辺りからなのだ。診察に難渋する症例や診察前に行った検査結果が思いのほか悪い症例が不思議と続く。月島や旭は百も承知している。そんな時でも月島は、次の患者が入ってくる前に敢えて旭に話しかける。
「順調だね」
「そうですか?」
「ところでこの写真、見てくれない?」
「はい」
「どう、これ?」
「う~ん︙︙」
「何点?」
「六点くらいでしょうか」
その写真は月島が今朝の出勤中に撮影した路地裏の一コマである。夜明け前で辺りは暗いが、民家の一つの壁が街灯で黄色く照らし出されている。月島のスマホは中国の中堅ブランド製で、しかもローエンドモデルであるため、カメラの質が高いとはとても言えない。夜間に撮影した写真などは、光量不足からか被写体が何かすら分からことがある。もっとも月島はなぜかそこが案外気にいっている。
月島が撮影したくだらない写真を旭はいつも評価してくれる。今回の写真はなんとも言えない幻想的な雰囲気を醸し出していたため、高い評価を期待してしたのだ。思いのほか興味なさそうな彼女の反応を見て、月島は写真の説明を付け加えた。
「ゴッホの『夜のカフェテラス』なんだけど」
「そうですか︙︙」
旭の対応はいつも淡々としている。彼女自身の本来の性格なのか、あるいは後天的に獲得したものなのか。いずれにしても言葉による説明が必要な写真は大したものではない。美大卒の旭は以前、そんな風なことを月島に言った。
ちなみに十点満点の六点なら普通は合格と思うかもしれない。実際に月島も当初は悪くはないと思っていた。しかし旭は興味がなければいつも六点を付ける。五点や七点はない。一度だけ八点を付けてくれたことがあるが、この写真は珍しく旭のセンスに合致したようだ。写真の優れている点を言語化してくれた。そして改善点も教えてくれた。月島にとってはいつもと何ら変わりのない、夜明け前の密集した民家の路地裏を、低性能カメラで撮影しただけだったのだが︙︙
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月島はこの写真をテルにも見せた。彼は患者支援センターを仕切っている優秀な事務員で、苗字は姫隘路である。名前にテルは一ミリも含まれていないが、月島は昔から彼のことをテルと呼んでいる(苗字の読み方が難しいからではない)。これは彼の趣味である5チャンネルから来ているが、際どいテーマのスレッドに関係するためここには記載しない。もちろん病院ではニックネームの使用は推奨されていないようであるが、月島はこのルールを完全に無視している。
「テル、この写真、どう思う?」
「何ですか、これ? 相変わらず画質が悪いですね」
「何点?」
「そうですね、三十点くらいでしょうか」
「これアサP、八点だったよ」
「それはすごいですね。でも何がいいんですか?」
テルの評価はいつも百点満点である。そしてアサPとは、旭が付ける十点満点のポイントのことだ。月島と姫隘路と旭の三人の間では、これらはすでに共通語になっている。姫隘路と月島は旭自身のこともアサPと呼んでいるが、どうも本人が嫌がっているようので最近は少し控えている。
月島にはアートのセンスはない。テルにもあまりないと月島は思っている。でも旭は違う。少なくとも彼女は大学で芸術を学んでいる。持って生まれたセンスもきっと違うのだろう。そうでなければ、月島の写真に対する旭のコメントに、これほど感心させられることはないはずだ。もっともコメントが得られること自体が稀ではあるが︙︙
彼女が自分自身を語ることはあまりない。よって月島にとって彼女はいまだに謎に包まれた若き女性である。なんと前職はテレビ局で小道具など美術部門を担当していたようだ。月島が彼女に関して他に知っていることといえば、読書が好きなこと、神道に興味があること(もっともこれは後に彼女が否定した)、そして昭和を愛しているらしいことくらいであった。
*
その日の外来はいつにもまして遅れた。心不全の緊急入院は月島の腹心である櫻木が手際よく対応してくれたが、診察室で月島をひどく罵った付き添いの男性には参った。長年フォローしている高齢患者の息子で、月島とは初対面である。患者の病態の説明を求められたのだが、一言では説明できない複雑な症例であった。循環器内科の疾患ならまだしも、線維筋痛症や精神疾患にも罹患している。すべて専門家にコンサルトしていたが、担当医と馬が合わずに結局月島のところに帰ってきたのだ。やむなく循環器内科で、循環器内科以外の多くの疾患を管理していたのであった。
月島のあいまいな説明に相手は納得するそぶりを見せない。怒りが募ってきたことが言葉の端々に感じられる。月島は言葉で説明することを諦め、なるだけ──あくまでも分かる範囲ではあるが──紙に記載することにした。プリンターから新しいA4の紙を一枚取り出すと、患者とその息子を背に机に向かって病名を一つひとつ書き出し始めた。
手間はかかるが、月島は淡々とペンを走らせる。十分ほどが経過したであろうか、月島は不意に手を止めた。その間、診察室の皆が無言であった。文字に埋め尽くされた紙を手渡した時には、男性の怒りは不思議と収まっていたようだ。説得を試みる言葉は往々にして相手の怒りを助長させる。かといって沈黙は時と場所を選ぶ。この男性への対応だけで一時間近くを要したが、何はともあれ相手が落ち着いてくれて良かった。診察室に怒鳴りあいは似合わない。
診察は予定から大幅に遅れているが、ちょっとした合間を見つけると月島は旭に声をかける。
「さすがに今日は焦っている?」
「大丈夫です」
「いや、追い込まれているだろう」
「ふっきれました。もう何も感じません」
「どういうこと?」
「失感情です」
「アレキシサイミアって言うんだっけ?」
「それはちょっと違います」
彼女は精神科クリニックでの勤務歴もあるため、そちらの方面には医師である月島よりもよほど明るい。その日は二人とも昼食をとらずに外来を継続した。もちろん隙をみて月島はくだらない質問を続ける。
結局、外来が終了したのは夕方遅くであった。月島は別段、疲れたとは思わなかった。そして旭のことを少し分かったような気がした。