第1話 眼鏡

 「忘れたか?」
 救急外来に向かう長い廊下を歩きながら、月島はひとり呟いた。声に出すつもりはなかったが、思いのほか響いたような気がする。夜明け前の病院は本当に殺風景だ。薄暗く静まり返り、そして特にこの時期は冷えている。日中とは打って変わった、この無機質な空気感には全くうんざりさせられる。
 月島は白衣の下に手を入れて確認してみた。いつもシャツの胸ポケットに軽めの老眼鏡をいれているのだ。やはり今回はそこに何も入っていない。右手からカシミヤの柔らかな肌触りが伝わってくるだけだ。ネイビーブルーのセーターを少し持ち上げて中を覗いてみたが、シャツの胸ポケットには何も入っていない。
 念のため白衣のポケットも確認してみた。少しかじかむ右手で右ポケットを探ったが、病院から支給されている専用携帯があるだけだ。小さくて解像度の低いモニターの下に、十二個の物理キーが配列されているやつである。背面にはコードブルーなど緊急事態時の連絡先が記されたプラスチックシールが貼られている。その右上の端が少しめくれているため、擦るとカサカサした感触が指先に伝わってくる。取り出して確認しなくても院内電話だと認識できる。
 次に左手を白衣の左ポケットに入れてみた。こちらにはプライベート用の携帯電話が入っていた。昨年購入した中国の中堅ブランド製で──おまけにローエンドモデルであるため──5Gには未対応だ。同僚の医師にはiPhoneユーザーが多いが、月島には同調しようという考えはない。今の携帯を特段気に入っているわけではないが、別段不満も感じていない。

 「やっぱりないな」
 救急室に入る扉の前で、月島はもう一度、そして今度は意識的に呟いてみた。しかしその声は全くと言っていいほど響かない。少なくとも音として月島の耳には届かなかった。救急室の周辺は、医局前の廊下と異なり何かと騒がしいからだ。昼夜を問わずさまざまな人間が出入りする。医師や看護師、事務員などの院内スタッフに加えて、患者や家族、友人、同僚等もいる。皆が慌ただしい。そこに救命救急士も加わる。月島が勤務する総合病院には一晩に十台以上の救急車がやってくるのだ。そんな喧騒の中では、もともと大きな声の持ち主とは思えない月島のつぶやきなど瞬く間にかき消されてしまう。
 救急室に通じる扉の手前にある緑色の長椅子に、年配の男性が神妙な面持ちで座っている。ちょっと目が合った気がしたが、月島は気づかないふりをしてその場を足早に去った。救急室の扉を開けると、櫻木が立ったまま電子カルテになにやら入力していた。医療用のマスクをしているが、それでも外見がとても目立つ女医である。大きな二重の眼と細く通った鼻筋が、透き通るような美肌の小顔を立体的に引き立てている。オンコール医として早朝に呼び出されたため、身支度にかけられた時間は僅かと思われが、そのオーラは日中と同様に別格である。同じ女性として隣で働く初期研修医や新人看護師の若さもくすんでしまう。

 月島の到着に気付いた櫻木が振り返った。
「先生、こんな時間にお呼びしてすいません」
「いいよ、どうせ病院にいたんだから」
 いつものやり取りに櫻木は笑みを返した。月島は櫻木と目が合うと時々、テオフィル・ゴーティエの小説を思い出す。聖職者ロミュオーがクラリモンドの美しさに苦悩した話である。神の愛を失わないために、ロミュオーは非常に極端な決断を下した。女性の顔を見ないですむよう、外出時は常に視線を地に落とすことにしたのだ。月島は別に苦悩しているわけではないが、ロミュオーの気持ちが分からないでもない。
 救急室は常に明るい。昼夜を問わず同じ明るさに調整されている。月島はすぐ奥にあるベットに横たわっている七十代くらいの女性を見た。いや六十代かもしれない。早朝に救急室に搬入される女性はメイクをしていないことがほとんどだ。素顔にしては綺麗な女性である。顔を構成する各々のパーツが整っているからかもしれないと月島は分析した。
 彼女と視線が合った気がしたので、少し頭を下げると彼女もそれに呼応して頭を下げた。表情には別段、苦しそうな様子は見受けられない。薄いピンクのパジャマにベージュのガウンを纏った様相は、まるで自宅の寝室にいるかのようである。もっとも寝巻きの下には赤や黄、黒など複数のコードが目に付く。モニターが心拍や血圧、酸素飽和度などを注意深く監視している。そう、ここは病院の救急室なのである。
 長年、循環器診療に従事している月島には、モニター音を無意識に聴いて危機を察知する習性が染みついている。よって今回も、救急室の扉を開けた直後から、心拍数がかなり低下していることを認識していた。もっとも櫻木から電話をもらった時点で、今回の症例は徐脈であることを知っていた。そう、それは今から五分ほど前の話である。

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 「月島先生でしょうか?こんな朝早い時間にすいません。いま救急室にふらつきで搬入された方がいて、心電図で2:1房室ブロックなんです」
「分かった。すぐに行く」
 月島は早朝にも関わらず病院の自室いた。毎朝、四時五十五分に起床するのだ。夏でも冬でも変わらない。これは近代哲学の祖であるドイツのカントと同じであるらしい。友人からそんなことを教えてもらった時に月島は少し喜んだ。いつ頃から始発電車で病院にやってくるようになったのか、月島は覚えていない。この時期は病院に到着しても、あたりは暗闇である。月島ほどではないにしても、櫻木の朝も早い。そして彼女は月島が夜明け前から院内にいることを知っているのだ。
 櫻木から電話をもらったとき、月島は外国人とビデオチャット中であった。彼は仕事で英語を要するが、語学習得のために毎朝話しているのではない。単なる興味本位である。比較的均一な日本とは異なる世界の生活や文化などを知りたいのだ。その点でオンライン英会話というシステムは月島の願望にとても合っている。その日は知らない国名の講師を見つけたため、早速レッスンを申し込んだのだった。
 その講師は国籍欄にガンビアと記載していた。もちろん聞いたことがない。おそらくアフリカの国だろうと推測したが、まさにその通りであった。ガンビアは西アフリカにある小国で、セネガルに囲まれていることをその講師は教えてくれた。実はセネガルのこともよく知らないが、首都ダカールはパリ・ダカール・ラリーでずいぶん昔に耳にしたことがある。どんな国なのかと胸を躍らせていた時に、院内電話の呼び出し音が鳴った。それが櫻木からだったのである。

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 救急室で心電図を確認した。この程度なら眼鏡がなくても、さしずめ困らない。やはり2:1の房室ブロックで、心拍数が通常の半分程度である。櫻木と相談して、緊急で一次ペーシングを行うことに決めた。一次ペーシングとは、体外から経静脈的にリード線を心臓まで挿入して、体外から電気刺激する医療行為である。手術室ではなく血管造影を行うアンギオ室で行うことが多い。局所麻酔下で行われ、所要時間は三十~六十分程度の比較的シンプルな手技である。
 一次ペーシングはなんなく終了した。右の頚部に張られた大きめのガーゼの下からリード線が体外に出て、スマホ程の大きさの機械に接続されている。この医療機器が定期的に電気信号を発して心臓に収縮を促すのである。心臓には電気回路が張り巡らされているわけではないが、電子の代わりにイオンの流れが刺激を心臓の隅々まで伝える。患者も心拍数が回復して楽になったためか、その表情が救急室よりも穏やかになった。加齢で魅力が増すタイプの女性だと月島は思った。
 一時ペーシングを挿入中、月島はアンギオ室に隣接する操作室にいた。実際の手技は櫻木と当直の初期研修医が行った。月島は大きな放射線遮蔽用ガラスと手元を映すモニターを通じて見ていただけではあるが、その役割は小さくない。上司がいるかいないかで櫻木のストレスがかなり違う。想定外のこと、例えば動脈の誤穿刺やリードの心穿孔などが生じた時には、さまざまな修羅場を経験している上司の存在は何かと心強い。もっともこれは医療現場以外では逆かもしれない。上司に監視されていると考えるだけで、緊張から実力を発揮できない部下は少なくない。
 月島は櫻木のそつない一連の手技を褒めた。櫻木は月島の眼を見てぺこりと頭を下げた。頬がうっすらと赤みを帯びているような気がした。月島は、時間外にも関わらず緊急ペーシングに駆けつけてくれた看護師や臨床工学技士、放射線技師にもねぎらいの言葉をかけた。患者にもひと声かけて、右手で左肩にそっとタッチした。そしてその後に月島は病院の自室に戻った。日中の通常業務が始まるには、まだ暫くある。そして眼鏡がないことを思い出した。

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 今日の月島は外来を担当する日である。再診の症例と新患の症例が混在し、いつも多忙である。そして老眼鏡がないと少し困るかもしれない。院内のシステムはすべて電子化されているため、文字サイズの設定を大きくすることは容易だ。以前、試しに最大の設定にしたら、ビー玉くらいの大きな文字がカルテモニターに映し出されて驚いたことがあった。問題は患者が持参した資料である。想定外に小さな文字で書かれている場合がある。健診結果もそうであることが少なくない。やはりいつもの眼鏡が手元にあるほうが安心だ。部屋を一通り探してみたが眼鏡は見つからなかった。
 月島の眼鏡はフレームが黒い。正確には、黒とは少し異なるように思うが、どう表現したらいいのか月島は知らない。レンズは僅かに着色されている。これは淡黄色と表現できるのではないかと月島は思っている。医療現場で尿や腹水の色調を表現するとしてよく使用される用語である。その日の外来は仕方なく眼鏡を使わずに行ったが,幸い困った状況にはならなかった。午後にはペースメーカの手術を必要とする症例の紹介が二件続いた。いずれも緊急性がなかったため、翌週に入院してもらうことにした。外来が終わった頃にはもう太陽が沈もうとしている。櫻木から電話をもらってから優に十時間は経過していた。
 月島は副院長室に戻った。部屋はいつも整然としている。八畳ほどの間取りで、マホガニーの机と本棚、クローゼットがセットになっている。かなり古い代物であるが、当時で百万円近くの値段であったことを秘書から聞いたことがある。机の上には大きなモニターが二台あり、その右側には小型モニターの付いたスマートスピーカーがある。キーボードとマウスはいずれも黒色のコードレスで、各種モニターとの調和がシンプルで美しい。コンピューターの本体や各種配線は背面に見えないよう配置されている。
 月島はもう一度、部屋を一通り見渡してみた。眼鏡が埋もれるような場所はない。この部屋にあるはずだが、その場所が思い浮かばない。やれやれと思いながら部屋をでて、パントリーで役員用の冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出した。月島はなぜかホットコーヒーが苦手である。夏はもちろん、冬でもアイスコーヒーを好む。専用のマグカップにコーヒーを注いだ後、二口ほど飲んだ。よく冷えた液体が食道から胃に流れ落ちる感触がたまらない。部屋に戻って、残りのコーヒーが入っているカップを机の上に置いた。机上の硝子板がカチッという乾いた音を立てた。
 いつもとは少し異なる一日を思い返しながら、スマートスピーカーにバッハを流すように命じた。ジャズも聞くがこんな時はバッハのピアノ曲が最もお似合いだ。そんな月島の意図を汲んだわけではないだろうにゴルトベルク変奏曲が始まった。このピアノ曲は月島のお気に入りで、その体位的な構成と数学的な展開がとても美しい。どうやらグレングールドの1981年の再録音盤らしい。今日は1955年の初録盤を聴きたい気分であったが、再録音盤でも悪い気はしない。
 演奏されたのは三十二曲の最後を飾るアリアであった。月島は今朝のことをもう一度、思い出してみた。ガンビア人と話していた。もちろん老眼鏡なんてかけていない。しかしそういえば眼鏡をクロスで拭いていた。英語でのやり取り中、無意識に机の上にあった眼鏡を手にして、レンズに指紋がしっかり残ったからだ。確かガンビア人のモニターには映らないようレンズを拭いていたはずだ。そしてそのタイミングで櫻木から電話があり、ビデオチャットを切り上げて救急室に向かった。

 「そうか、眼鏡ケースだ」
 月島は唐突にそう思った。病院の眼鏡をケースに収めるのは週末のみ、つまり金曜日の帰宅時である。平日に眼鏡をしまったことなど、この数年来なかった。眼鏡はいつもマホガニーの机上に無造作に置いている。机の右側にある引き出しの二段目をそっと開けてみた。グレーで軽量の、そして四隅の尖ったケースがある。そしてその中に果たして黒い色をした老眼鏡が、クロスにくるまれて収まっていた。
 なぜこんなところに眼鏡があるのか月島は自分でも分からない。しかしガンビア人との会話や櫻木から緊急連絡︙︙通常とは異なる状況で手が無意識に動いたのかもしれない。いずれにせよ良かった。月島は眼鏡をかけてみて少し安心した後、いつも通り机の上に置いた。眼鏡のレンズには指紋はひとつも付いていない。
 スマートスピーカーは、ゴルトベルク変奏曲の最終曲アリアの終盤を奏でていた。月島は最後まで聞き終わると音楽を止めて、帰り支度を始めた。
 病院を後にした時には夜の帳がすでに下りていたが、別段疲労感はなかった。