第10話 現実
「鈴虫だろうか?」
どこからともなく小鈴を振った時のような音が聴こえてくる気がして月島は眼を開けた。寝ていたのか、既に起きていたのかは自分でもよく分からない。部屋は深海のように暗く静まり返っている。西面にある二つの小窓から月明かりは差し込んでいない。南側の大きな窓はシャッターが閉められている。きっと日はまだ明けていないのだろうと月島は予想した。寝不足感があるわけではないので、さしずめ朝の四時あたりか。
枕元に置いてある目覚まし時計は、上部にあるボタンを押せば現在の時刻をデジタル数字で表示してくれる。正確な時間を確認しようかとも思ったが、少し迷った末、結局ボタンは押さないことにした。つい先ほどまで月島がいた世界感の余韻をもう少し楽しみたいと思ったからだ。
そう、彼は夢をみていたのだ。現実とは似ているようで似ていない、一風変わった、それでいて少し愛らしい夢である。月島は静まり返った暗闇の中でひとり、そのストーリーを初めから思い出してみることにした。
*
舞台は病院である。しかし月島が働いている都会の総合病院、モカネ病院とは少し違う。どのように違うのか問われると困ってしまうが、確かに何かが違うのだ。そして夢の中のこの病院は、新たに開院するのを待っている新病院のようだ。そういえば現実世界のモカネ病院も将来の建て替えを想定して、現在は細部を調整中である。例えば各診察室に手洗い場を付けるのか、待合の椅子はどのように配置するのか、などである。実際の建て替えは三~四年先になる予定であるが、既に大まかな配置は固定されている。どうしてこんなに早くから確定する必要があるのかと思うが、専門家からそんなものだと言われると、そんなものなのかと変に納得してしまう。こだわらない領域はとことん気にならない。月島はだいたいそういう考え方をする人間なのだ。
彼はその新病院の中の総合医局にいた。幾何学的に美しく並べられた新しい机の上にはコンピューターが置かれ、その背部には二段の本棚もセットされている。椅子の背もたれと座面には同じ柄の布製クッションが貼られ、なかなか見た目にも悪くない。見知った顔である月島の同僚医師が、各々の机に本などを移動させている。集団引っ越しだ。月島は自分の机を探したが、どういう訳か、うまく見つからない。皆に聞いて回るが、月島の机がどれなのかを知っている人は誰もいないようだ。どうして他人は自分の机の場所が分かったのだろうかと疑問に思うが、月島はめんどくさくなって誰にも尋ねなかった。
そうこうしているうちに、月島は自分には個室があてがわれていることを思い出した。月島はモカネ病院の副院長であるため、旧病院では大きな個室を持っていたのだ。およそ十畳はあろうか。マホガニー製の机と本棚、クローゼットのセットに加えて、来客に対応するためのテーブルと四脚の椅子が備え付けられている。部屋の突き当りは全面ガラス張りで、病院の周囲を飾る樹木の緑が一年を通じて美しい。夢の中の話なのに、この部分に関しては、やけに明瞭に思い出せた。「現実の世界なので当たり前かな」と月島はベッドの中でひとりほくそ笑んだ。
新病院での自分の部屋はどんな風になっているのだろうかと月島は心がときめいた。しかしその前にそれがどこにあるのか分からない。そこで総合医局を出て探してみることにした。少し歩くと月島は人工芝が敷き詰められたグランドの横に出た。そこでは十人ほどの人間が何かのスポーツをしていた。サッカーのようである。心持ちボールがひと回り小さい気がするが、足でボールを蹴っている。そのフィールドは、ボールが外に飛び出さないよう緑色の紐で作られた網で囲まれていた。そうか、フットサルだ。彼らはフットサルをしているのだ。どうして病院にフットサルの競技場があるのかとも思ったが、夢の中だからこれは考えても仕方がない。
そう言えば現実のモカネ病院にも確かフットサルのチームがあった。患者支援センターの姫隘路(通称、テル)が主導してチームを作っていたはずだ。先日、新しいユニフォームを作ったといって見せてもらった。緑とも青とも言えない不思議な色のモザイクを基調とし、シャツの下の方には心電図の波形が描かれている。どうして心電図なのかは分からないが、とにかくモニター波形がプリントされているのだ。循環器内科の専門医である月島から見ると、その心電図はQRS幅が微妙に広く、立ち上がり直前にデルタ波のような異常を伴っている。間違いなく病的な波形であるが、彼らは一向に気にかけていないようだ。夢の中のフットサル場で皆が着ているユニフォームは、月島が先日眼にしたものとはどうやら異なるようである。心電図の部分を確かめようと眼を凝らしてみたが、どういう訳かぼんやりとしたピンクの輪郭が浮かび上がってくるだけであった。
選手の中で一人だけ、心電図がプリントされたユニホームを着ている。そしてそれがテルと気が付くのに時間はかからなかった。彼がフットサルを愛していることは知っていたが、実際にプレーしているところを眼にするのは初めてである。お手並み拝見といくかと、月島はフィールドを取り囲む緑の網目から覗き込んだ。予想外にスピード感にあふれた動きに感心した直後、誰かとぶつかったのか、彼の首の少し下辺りがみるみる赤くなってきた。そのうちに水道の蛇口を全開にしたかの如く、朱色の液体を首から噴出しだしたのだ。静脈血にしては明るいが、動脈血のそれ程鮮やかではない。夢と言ってしまえばそれまでであるが、止血しなければ命に関わる大出血である。月島は少し焦った。
次の瞬間、緑の網の外にいたはずの月島は、テルのすぐ横にいることに気が付いた。どうやって網を通り抜けたのかは不明であるが、細かいことはどうでもいい。ここは夢の中だし、何はともあれ止血である。何気なく横を見ると救急科の部長がすでに止血を開始していた。月島は、彼の的確な判断に日頃から一目置いている。さすがに対応が早いと感心したが、「これはもう助かりません」と宣言したかと思うと、その場からさっさと立ち去ってしまった。救急医として出血症例へのあまりにも非常識な対応に月島は自らの眼を疑った。大量出血にも関わらず、なぜかテルは元気そうに笑っている。これはどういうことなのかと思ったが──繰り返すがこれは夢であるため異変があっても無視しないと前には進めない──月島はとりあえず自分で止血をしようと決心して、人工芝の上に横たわる彼の傍らに膝をついて出血源と思われる頚部を覗き込んだ。
ちょうどその時である。テルの左胸辺りから、小さな何かが飛び出してきた。大きさは二十センチくらいであろうか、黒に近い緑色で、映画スター・ウォーズに出てくるヨーダをさらに小さくしたような形をしている。その生き物はテルと月島の間に飛び出すと、月島に向かってぺこりと頭を下げた。挨拶のつもりだろうか。そしてその後に何かを月島に向かって話し始めた。耳には何も聞こえてこないが、不思議とちびヨーダの言わんとすることを理解することができた。どうやら自己紹介をしているようである。月島もとりあえず当たり障りのない自己紹介をした。続いてちびヨーダは、自分がテルの本体だと言ってきた。どう反応したらいいのか月島にはさっぱり分からなかったが、相手は一方的に会話を続ける。
彼の話す内容を簡単に要約すると、彼はテルの実態で悪の権化であるらしい。とても同意できる内容ではなかった。月島がテルの内部に潜むダークな部分を感じないわけではないが、誰もが心の奥深くに闇の部分を隠し持っている。しかしちびヨーダは、強欲かつ自己中心的な考えに覆われたものがテルの本質だ言い張る。いくらそう主張されても、月島はとうてい受け入れることはできないことを伝えた。ちびヨーダはとうとう怒ってしまい、最後には月島がまだ未熟な子供だから理解できないのだと言い始めた。そんなことより月島は大量出血しているテルの病態が気になる。しかしこの小さい生き物がテルの胸から出てきた後、本体である体の輪郭は少しずつ不明瞭になり、十分もすると──夢の中の時間軸は現実とは異なり実際にはもっと経っていたいたのかもしれないが──もはや認識できなくなってしまった。
長い沈黙を破って小さい悪魔は月島に尋ねる。
「お前はテルをどうするのだ?」
月島は本当に困ってしまった。目の前で起こることすべてに圧倒されてしまい、何も考えられなくなってしまった。新病院の中にあるフットサル場、大量出血しているテル、突然現れたちびヨーダ、テル内部のダークな部分、そしてもはや実態のないテルの体︙︙鈴虫のような鳴き声を耳にしたのはちょうどそんな時だった。
*
あの音は、この摩訶不思議な世界線から逃避するのに最高のきっかけだったのだろう。実際にそれに呼応することで、夢の中の月島は現実に戻ることができた。ひょっとすると現実の世界線に戻るよう、月島自身が夢の中を彷徨う月島に呼びかけたのかもしれない。どちらかは分からない。でも月島はそれ以上考えることをやめた。考えても答えがない以上に、何も考えない方がいいような気がしたからだ。現実と夢の境界がとても曖昧になっている今、これ以上深入りするのは危険だ。おとぎ話ではないが、このままちびヨーダの住むダークサイドに引きずり込まれては堪らない。ベッドの中で夢を反芻している自分自身も、本当に現実なのか、はたまた夢の続きなのか自信が持てなくなってきた。
*
ここからは間違いなく現実の話である。モカネ病院に出勤してから自室で月島は昨夜の夢について少しだけ考えてみた。予知夢ではないにしても、夢は潜在意識と何らかの関連を有すると聞いたことがある。もしそうだとしたら、昨夜の夢は一体何を暗示しているのだろうか? もちろん何も意味しないと思ったが、外来が始まる前に旭(通称、あさP)に聞いてみることにした。医師事務である彼女は、精神科のクリニックで勤務したこともあり、このあたりの領域については造詣が深いのだ。そして彼女が霊的な能力をもっているのは周知の事実である(と月島は信じている)。
八時前に診察室に行くと、あさPがその日の外来の準備をしていた。月島は早速、昨晩に見た夢の話を彼女に伝えた。あさPの返事はあっさりしていた。「姫隘路さんは死んだのですか?」、それだけだった。そして、現実との関連に対しては「分からない」と言ったきり何も言わない。あさPの答えは月島が期待したものではない。しかしこの件に関して彼女を責めるのは酷だ。こんなことを相談されて困らない人間はいない。逆に月島だって聞かれたら困っただろう。最後に「テルにこの夢を伝えようと思うのだけど︙︙」と伝えると、「いいと思います」と言ってくれた。
月島が勤務するモカネ病院では、毎朝八時半から救急外来でカンファレンスを行う。前日の救急症例を日勤メンバーに引き次ぐための申し送りで、月島は副院長として平日は常に参加することになっている。その日の早朝カンファレンスで彼は救急科の部長を見かけた。夢の中でテルの蘇生をすぐに諦めた人物である。何も知らない彼はいつも通りクールであった。的確とは言えない看護師からの申し送りに対して、二~三の短い質問をした後、現場に戻っていった。
外来が始まる前に患者連携センターに寄った月島はテルを見かけた。少し迷ったが、昨夜に見た夢のことを伝えた。出血して瀕死であったこと、左胸から小さな生き物が飛び出したこと、そしてテルの本質と自称したそのちびヨーダは生粋の悪であったことなどである。彼はなにか嬉しそうな顔をして、「僕に何かあったら絶対にDNARでお願いします」と答えた。DNARは医学用語で一切の蘇生(心臓マッサージや人工呼吸管理など)は不要であるということである。月島は話の論点がずれていると思ったが、説明するのも面倒なので、適当に話を切り上げた。
外来に戻った月島は、テルの反応をあさPに伝えた。そして彼女は「姫隘路さんはDNARなんですか︙︙」とだけ言った。月島はやれやれと思った。正直なところ、テルの反応もあさPの反応も、彼が求めていたものではなかったが、きっとあの夢自体が議論には不適なのだろう。月島はそんなふうに理解した。
*
あさPとその日の仕事に関する幾つかの重事項を確認した後、月島は全く別のテルに関する話題を振ってみた。
「そういえばテルが昨晩、こんな写真をラインで送ってきたんだけどどう思う?」
それは彼が深夜にラーメン屋で大盛りを平らげているシーンであった。店の名前は「夢を語る」である。
「姫隘路さん、そういえば最近外来を受診されていませんね」
あさPは暫く間を置いてから淡々とそう答えた。
彼は高血圧があるため月島が降圧薬を処方していたのであった。幸い高血圧の程度は軽く、一日一錠で家庭血圧は安定していた。しかし最近、少なくともこの半年は、薬をもらいに来ていなかった。もちろん月島は知っていたが、差し迫ったリスクでもないため、患者の(つまりテルの)主体性に任せていた。
「でも怠薬中に塩分の大量摂取とは︙︙」
月島は小さなため息をついた。嘆く月島をよそ目に、あさPが何か呟いた(ような気がした)。
「現実をみろ」
とても小さな──夢から目覚めさせてくれたあの鈴音に似た──乾いた音であった。「現実をみる」だったかもしれない。いずれにせよ、消え入りそうな声で確かに彼女はそのようなことを言った。一体、誰に対しての言葉だろうか? とっさに月島は思った。テル、月島、はたまた夢を語るという名のラーメン屋︙︙尋ねてみようかと思ったが、やめておいた。これも説明できるほどの理由はない。ただ、なんとなくである。
*
月島がその日の仕事を終えて病院を出たのは夜の九時を少し回った頃であった。いつもよりずいぶんと遅くなってしまった。最寄りの地下鉄の駅まで歩きながら、昨日の夢のことをもう一度思い出そうとしてみたが、もはや頭にも心にも何も浮かんでこなかった。テルから出て来た悪の権現、ちびヨーダを除いては︙︙
その代わりに彼の中にあさPの言葉がいつまでもこだました。
「現実をみろ」と︙︙
どこからともなく小鈴を振った時のような音が聴こえてくる気がして月島は眼を開けた。寝ていたのか、既に起きていたのかは自分でもよく分からない。部屋は深海のように暗く静まり返っている。西面にある二つの小窓から月明かりは差し込んでいない。南側の大きな窓はシャッターが閉められている。きっと日はまだ明けていないのだろうと月島は予想した。寝不足感があるわけではないので、さしずめ朝の四時あたりか。
枕元に置いてある目覚まし時計は、上部にあるボタンを押せば現在の時刻をデジタル数字で表示してくれる。正確な時間を確認しようかとも思ったが、少し迷った末、結局ボタンは押さないことにした。つい先ほどまで月島がいた世界感の余韻をもう少し楽しみたいと思ったからだ。
そう、彼は夢をみていたのだ。現実とは似ているようで似ていない、一風変わった、それでいて少し愛らしい夢である。月島は静まり返った暗闇の中でひとり、そのストーリーを初めから思い出してみることにした。
*
舞台は病院である。しかし月島が働いている都会の総合病院、モカネ病院とは少し違う。どのように違うのか問われると困ってしまうが、確かに何かが違うのだ。そして夢の中のこの病院は、新たに開院するのを待っている新病院のようだ。そういえば現実世界のモカネ病院も将来の建て替えを想定して、現在は細部を調整中である。例えば各診察室に手洗い場を付けるのか、待合の椅子はどのように配置するのか、などである。実際の建て替えは三~四年先になる予定であるが、既に大まかな配置は固定されている。どうしてこんなに早くから確定する必要があるのかと思うが、専門家からそんなものだと言われると、そんなものなのかと変に納得してしまう。こだわらない領域はとことん気にならない。月島はだいたいそういう考え方をする人間なのだ。
彼はその新病院の中の総合医局にいた。幾何学的に美しく並べられた新しい机の上にはコンピューターが置かれ、その背部には二段の本棚もセットされている。椅子の背もたれと座面には同じ柄の布製クッションが貼られ、なかなか見た目にも悪くない。見知った顔である月島の同僚医師が、各々の机に本などを移動させている。集団引っ越しだ。月島は自分の机を探したが、どういう訳か、うまく見つからない。皆に聞いて回るが、月島の机がどれなのかを知っている人は誰もいないようだ。どうして他人は自分の机の場所が分かったのだろうかと疑問に思うが、月島はめんどくさくなって誰にも尋ねなかった。
そうこうしているうちに、月島は自分には個室があてがわれていることを思い出した。月島はモカネ病院の副院長であるため、旧病院では大きな個室を持っていたのだ。およそ十畳はあろうか。マホガニー製の机と本棚、クローゼットのセットに加えて、来客に対応するためのテーブルと四脚の椅子が備え付けられている。部屋の突き当りは全面ガラス張りで、病院の周囲を飾る樹木の緑が一年を通じて美しい。夢の中の話なのに、この部分に関しては、やけに明瞭に思い出せた。「現実の世界なので当たり前かな」と月島はベッドの中でひとりほくそ笑んだ。
新病院での自分の部屋はどんな風になっているのだろうかと月島は心がときめいた。しかしその前にそれがどこにあるのか分からない。そこで総合医局を出て探してみることにした。少し歩くと月島は人工芝が敷き詰められたグランドの横に出た。そこでは十人ほどの人間が何かのスポーツをしていた。サッカーのようである。心持ちボールがひと回り小さい気がするが、足でボールを蹴っている。そのフィールドは、ボールが外に飛び出さないよう緑色の紐で作られた網で囲まれていた。そうか、フットサルだ。彼らはフットサルをしているのだ。どうして病院にフットサルの競技場があるのかとも思ったが、夢の中だからこれは考えても仕方がない。
そう言えば現実のモカネ病院にも確かフットサルのチームがあった。患者支援センターの姫隘路(通称、テル)が主導してチームを作っていたはずだ。先日、新しいユニフォームを作ったといって見せてもらった。緑とも青とも言えない不思議な色のモザイクを基調とし、シャツの下の方には心電図の波形が描かれている。どうして心電図なのかは分からないが、とにかくモニター波形がプリントされているのだ。循環器内科の専門医である月島から見ると、その心電図はQRS幅が微妙に広く、立ち上がり直前にデルタ波のような異常を伴っている。間違いなく病的な波形であるが、彼らは一向に気にかけていないようだ。夢の中のフットサル場で皆が着ているユニフォームは、月島が先日眼にしたものとはどうやら異なるようである。心電図の部分を確かめようと眼を凝らしてみたが、どういう訳かぼんやりとしたピンクの輪郭が浮かび上がってくるだけであった。
選手の中で一人だけ、心電図がプリントされたユニホームを着ている。そしてそれがテルと気が付くのに時間はかからなかった。彼がフットサルを愛していることは知っていたが、実際にプレーしているところを眼にするのは初めてである。お手並み拝見といくかと、月島はフィールドを取り囲む緑の網目から覗き込んだ。予想外にスピード感にあふれた動きに感心した直後、誰かとぶつかったのか、彼の首の少し下辺りがみるみる赤くなってきた。そのうちに水道の蛇口を全開にしたかの如く、朱色の液体を首から噴出しだしたのだ。静脈血にしては明るいが、動脈血のそれ程鮮やかではない。夢と言ってしまえばそれまでであるが、止血しなければ命に関わる大出血である。月島は少し焦った。
次の瞬間、緑の網の外にいたはずの月島は、テルのすぐ横にいることに気が付いた。どうやって網を通り抜けたのかは不明であるが、細かいことはどうでもいい。ここは夢の中だし、何はともあれ止血である。何気なく横を見ると救急科の部長がすでに止血を開始していた。月島は、彼の的確な判断に日頃から一目置いている。さすがに対応が早いと感心したが、「これはもう助かりません」と宣言したかと思うと、その場からさっさと立ち去ってしまった。救急医として出血症例へのあまりにも非常識な対応に月島は自らの眼を疑った。大量出血にも関わらず、なぜかテルは元気そうに笑っている。これはどういうことなのかと思ったが──繰り返すがこれは夢であるため異変があっても無視しないと前には進めない──月島はとりあえず自分で止血をしようと決心して、人工芝の上に横たわる彼の傍らに膝をついて出血源と思われる頚部を覗き込んだ。
ちょうどその時である。テルの左胸辺りから、小さな何かが飛び出してきた。大きさは二十センチくらいであろうか、黒に近い緑色で、映画スター・ウォーズに出てくるヨーダをさらに小さくしたような形をしている。その生き物はテルと月島の間に飛び出すと、月島に向かってぺこりと頭を下げた。挨拶のつもりだろうか。そしてその後に何かを月島に向かって話し始めた。耳には何も聞こえてこないが、不思議とちびヨーダの言わんとすることを理解することができた。どうやら自己紹介をしているようである。月島もとりあえず当たり障りのない自己紹介をした。続いてちびヨーダは、自分がテルの本体だと言ってきた。どう反応したらいいのか月島にはさっぱり分からなかったが、相手は一方的に会話を続ける。
彼の話す内容を簡単に要約すると、彼はテルの実態で悪の権化であるらしい。とても同意できる内容ではなかった。月島がテルの内部に潜むダークな部分を感じないわけではないが、誰もが心の奥深くに闇の部分を隠し持っている。しかしちびヨーダは、強欲かつ自己中心的な考えに覆われたものがテルの本質だ言い張る。いくらそう主張されても、月島はとうてい受け入れることはできないことを伝えた。ちびヨーダはとうとう怒ってしまい、最後には月島がまだ未熟な子供だから理解できないのだと言い始めた。そんなことより月島は大量出血しているテルの病態が気になる。しかしこの小さい生き物がテルの胸から出てきた後、本体である体の輪郭は少しずつ不明瞭になり、十分もすると──夢の中の時間軸は現実とは異なり実際にはもっと経っていたいたのかもしれないが──もはや認識できなくなってしまった。
長い沈黙を破って小さい悪魔は月島に尋ねる。
「お前はテルをどうするのだ?」
月島は本当に困ってしまった。目の前で起こることすべてに圧倒されてしまい、何も考えられなくなってしまった。新病院の中にあるフットサル場、大量出血しているテル、突然現れたちびヨーダ、テル内部のダークな部分、そしてもはや実態のないテルの体︙︙鈴虫のような鳴き声を耳にしたのはちょうどそんな時だった。
*
あの音は、この摩訶不思議な世界線から逃避するのに最高のきっかけだったのだろう。実際にそれに呼応することで、夢の中の月島は現実に戻ることができた。ひょっとすると現実の世界線に戻るよう、月島自身が夢の中を彷徨う月島に呼びかけたのかもしれない。どちらかは分からない。でも月島はそれ以上考えることをやめた。考えても答えがない以上に、何も考えない方がいいような気がしたからだ。現実と夢の境界がとても曖昧になっている今、これ以上深入りするのは危険だ。おとぎ話ではないが、このままちびヨーダの住むダークサイドに引きずり込まれては堪らない。ベッドの中で夢を反芻している自分自身も、本当に現実なのか、はたまた夢の続きなのか自信が持てなくなってきた。
*
ここからは間違いなく現実の話である。モカネ病院に出勤してから自室で月島は昨夜の夢について少しだけ考えてみた。予知夢ではないにしても、夢は潜在意識と何らかの関連を有すると聞いたことがある。もしそうだとしたら、昨夜の夢は一体何を暗示しているのだろうか? もちろん何も意味しないと思ったが、外来が始まる前に旭(通称、あさP)に聞いてみることにした。医師事務である彼女は、精神科のクリニックで勤務したこともあり、このあたりの領域については造詣が深いのだ。そして彼女が霊的な能力をもっているのは周知の事実である(と月島は信じている)。
八時前に診察室に行くと、あさPがその日の外来の準備をしていた。月島は早速、昨晩に見た夢の話を彼女に伝えた。あさPの返事はあっさりしていた。「姫隘路さんは死んだのですか?」、それだけだった。そして、現実との関連に対しては「分からない」と言ったきり何も言わない。あさPの答えは月島が期待したものではない。しかしこの件に関して彼女を責めるのは酷だ。こんなことを相談されて困らない人間はいない。逆に月島だって聞かれたら困っただろう。最後に「テルにこの夢を伝えようと思うのだけど︙︙」と伝えると、「いいと思います」と言ってくれた。
月島が勤務するモカネ病院では、毎朝八時半から救急外来でカンファレンスを行う。前日の救急症例を日勤メンバーに引き次ぐための申し送りで、月島は副院長として平日は常に参加することになっている。その日の早朝カンファレンスで彼は救急科の部長を見かけた。夢の中でテルの蘇生をすぐに諦めた人物である。何も知らない彼はいつも通りクールであった。的確とは言えない看護師からの申し送りに対して、二~三の短い質問をした後、現場に戻っていった。
外来が始まる前に患者連携センターに寄った月島はテルを見かけた。少し迷ったが、昨夜に見た夢のことを伝えた。出血して瀕死であったこと、左胸から小さな生き物が飛び出したこと、そしてテルの本質と自称したそのちびヨーダは生粋の悪であったことなどである。彼はなにか嬉しそうな顔をして、「僕に何かあったら絶対にDNARでお願いします」と答えた。DNARは医学用語で一切の蘇生(心臓マッサージや人工呼吸管理など)は不要であるということである。月島は話の論点がずれていると思ったが、説明するのも面倒なので、適当に話を切り上げた。
外来に戻った月島は、テルの反応をあさPに伝えた。そして彼女は「姫隘路さんはDNARなんですか︙︙」とだけ言った。月島はやれやれと思った。正直なところ、テルの反応もあさPの反応も、彼が求めていたものではなかったが、きっとあの夢自体が議論には不適なのだろう。月島はそんなふうに理解した。
*
あさPとその日の仕事に関する幾つかの重事項を確認した後、月島は全く別のテルに関する話題を振ってみた。
「そういえばテルが昨晩、こんな写真をラインで送ってきたんだけどどう思う?」
それは彼が深夜にラーメン屋で大盛りを平らげているシーンであった。店の名前は「夢を語る」である。
「姫隘路さん、そういえば最近外来を受診されていませんね」
あさPは暫く間を置いてから淡々とそう答えた。
彼は高血圧があるため月島が降圧薬を処方していたのであった。幸い高血圧の程度は軽く、一日一錠で家庭血圧は安定していた。しかし最近、少なくともこの半年は、薬をもらいに来ていなかった。もちろん月島は知っていたが、差し迫ったリスクでもないため、患者の(つまりテルの)主体性に任せていた。
「でも怠薬中に塩分の大量摂取とは︙︙」
月島は小さなため息をついた。嘆く月島をよそ目に、あさPが何か呟いた(ような気がした)。
「現実をみろ」
とても小さな──夢から目覚めさせてくれたあの鈴音に似た──乾いた音であった。「現実をみる」だったかもしれない。いずれにせよ、消え入りそうな声で確かに彼女はそのようなことを言った。一体、誰に対しての言葉だろうか? とっさに月島は思った。テル、月島、はたまた夢を語るという名のラーメン屋︙︙尋ねてみようかと思ったが、やめておいた。これも説明できるほどの理由はない。ただ、なんとなくである。
*
月島がその日の仕事を終えて病院を出たのは夜の九時を少し回った頃であった。いつもよりずいぶんと遅くなってしまった。最寄りの地下鉄の駅まで歩きながら、昨日の夢のことをもう一度思い出そうとしてみたが、もはや頭にも心にも何も浮かんでこなかった。テルから出て来た悪の権現、ちびヨーダを除いては︙︙
その代わりに彼の中にあさPの言葉がいつまでもこだました。
「現実をみろ」と︙︙