第4話 吃逆
年明けの通常外来はあまり混まない。会社が休みのうちに定期受診をさっさと済ませておきたいと考える人はいる。しかし体調が悪くなければ、わざわざこの時期に病院を訪れたい人は少ないのではないか。月島はいつもそんなふうに思っている。
「今日の外来は平和だね。この調子なら午前中に終了したりして」
月島は軽い調子で、隣にいる事務職の旭に声をかけた。
「そう、です、ね」
旭に元気がない。いつも活気があるというわけではないが、今日はどこか調子が悪そうだ。朝から時折マスクを外して、口の中に飴を放り込んでいる。これで五個目だろうか、およそ三十分に一個のペースだ。旭の声のトーンはいつもと変わらないが、なにかしゃべりにくそうだ。そして口数も、いつにも増して少ないような気がする。
そういえば彼女の同僚が、旭は年末年始に体調を崩して家に引きこもっていたことを外来前に教えてくれた。近隣ではインフルエンザ（ほとんどＡ型）が流行し、コロナも依然散発している。旭はいずれも陰性であったそうだが、これはあまりあてにはならない。発症早期では検査が偽陰性になることがあるためだ。一～二日後に再検すればより確実であるが、コストと時間の問題がある。そんなことをする人は少数派で、もちろん彼女も検査は一度きりである。
旭はいつも通り薄着で仕事をしていた。病院から支給されている青いストライプの入ったオーバーブラウスのみだ。素材は分からないが通気性の高そうな夏仕様で、保温性に優れているとは思えない。この冬の時期には多くの職員が長袖のオーバーブラウスにベストを重ね着していることとは対照的だ。中には厚めのロングカーデガンを羽織っている女子職員もいる。さすがに旭でも、感染症に罹患していればこんな薄着は辛いだろう月島は思った。
本日の外来は予約時間に来院しない患者が多かった。想定外の用事で予定受診をキャンセルする患者は少なくない。何かと行事が多いこの時期なので、予約自体を忘れている患者もいるだろう。特段予定がなくても、残薬があれば正月明けくらいはゆっくりしたい気持ちもわからないではない。来院しない理由がなににせよ、今日のようにゆったりとした外来も悪くないものだと月島は思っていた。
そんな来院しない患者の一人に、モカネ病院の患者支援センターの責任者である姫隘路がいた。そして月島は彼をテルと呼んでいる。
「テルはどうしたの？ 十時の予約時間はとうに過ぎているんだけど︙︙」
「姫隘路さんは、まだ、受付も、されて、ません」
旭はやはりしゃべりにくそうだ。
「診察を忘れているのかな？」
「電話、して、みましょう、か？」
「そうだな、頼む」
旭が病院支給の携帯で電話している間に、診察室の固定電話が鳴った。こんな時、月島が患者を診察中なら、隣の診察室の事務員が来て電話に対応してくれる。何もすることがなかった月島が受話器をとると、相手は友人の外科医で、臨時に患者を診察して欲しいという依頼であった。午前中の診察ならわざわざこのような連絡は不要であるが、患者の来院がお昼をかなり過ぎるようだ。もちろん了承して電話を切った。
旭も電話を終えた。どうやらテルは今日は有休を取得していたようだ。院内職員を知己の医師が外来でフォローすることはよくある。月島たちが勤務するモカネ病院は急性期病院なので、通常なら安定例や軽症例はすべて近隣のクリニックへ紹介している。しかし利便性を考慮すると職員が院内での診察を希望するのももっともだ。仕事の合間に受診を済ませることができるからだ。そして予約変更も容易であるため、予定日に来院しないことが一般の患者よりも多い。
旭が月島に尋ねた。
「先生の、電話は、なん、でした？」
「ああ、忘れるところだった。外科から胸痛患者がくるよ」
「そう、です、か︙︙」
旭はそう答えた。
「どうやら一時頃になるみたい」
「分かり、ました」
一呼吸おいて、旭は不自然にそう言った。何かが喉に引っかかっていて、飲み込みたいが飲み込めないような状況なのだろうか。そんなふうに月島は感じた。
＊
外科からの紹介症例が実際に循環器内科外来を受診したのは、午後二時を少し回った頃であった。症例は中年の男性で、昨夜の三時頃に左胸の圧迫感で目が覚めたようだ。その圧迫感は左肩から顎に放散し、冷や汗も伴っていた。どうしようかと暗闇の中で考えているうちに、再び眠りに落ちてしまったようだ。今朝目覚めたときには、もう胸は何ともなかったと述べた。若い頃に数年間タバコを吸っていたが、それ以外は動脈硬化の危険因子は見当たらない。本人は、年末年始の疲れかストレスだろうとたかをくくっている。しかし月島は急性冠症候群を危惧した。急性冠症候群とは急性心筋梗塞や不安定狭心症などの総称で、緊急手術を行わなければ命を落とすこともある。
紹介してくれた外科医が前もって必要な検査をオーダーしておいてくれた。とても優秀なやつである。月島は常々、病院には二種類の医師がいると思っている。自分の専門外なら何も検査せずに丸投げしてくる医師と必要な検査を前もって行ってくれる医師である。今回の外科医はもちろん後者で、月島の好むスタンスだ。
その外科医の実年齢は月島よりも七～八歳は下である。しかし軽く見積もっても十歳以上は老けて見える。病院ではケーシーと呼ばれる首元が短いタートルネックで肩でボタンを留める医療用ウェアを着ているが、出勤時の服装はとても洒落ている。肌触りのなめらかなカシミヤのハイネックセーターにジャケットを羽織り、細めのパンツの下は、つま先が程よく長いロングノーズの本革靴だ。靴と鞄とベルトはいつも色を統一している。
月島は彼が依頼してくれた検査の結果を確認した。そのすべてが正常であったが、病歴から示唆される急性冠症候群の疑いは揺らがない。一刻も早い冠動脈の評価が望まれると思った。冠動脈とは心臓を取り囲む動脈で、その閉塞が致死的な経過に繋がる。本邦では癌が最大の死因であるが、欧米をはじめとする多くの諸外国では、半数以上が冠動脈疾患に関連する死を迎える。元気だった中高年を突然襲う非情な病気である。
状況を把握していない目の前の患者からは笑顔がこぼれている。そんな重篤な病態であるかもしれないとは理解できないのだろう。何の症状もないから止むを得ない。しかし速やかにカテーテル検査と呼ばれる冠動脈の造影が必要なのだ。
月島は患者夫婦に、言葉を慎重に選びながら説明する。しかし二人とも笑顔を崩さず、患者は来週には重要な仕事があるからと取り合ってくれない。月島は徐々にインパクトのある用語を織り交ぜていく。放置すれば死亡する可能性があることを伝える。患者の眼の色が少しづつではあるが変わってきたことが見て取れる。
検査で冠動脈に高度の狭窄や閉塞があるときは、速やかにインターベンションと呼ばれるカテーテル手術に移行することも伝えた。通常の死亡率は一％未満であるが、本例のように緊急で行う場合は、多少なりともそのリスクは上昇する。その他、心破裂や致死性不整脈、脳梗塞などの重篤な合併症が生じ得ることも説明した。そして手術に対する同意書を本人に手渡した。
患者とその妻の顔から笑みはもはや消えている。診察室は静寂に包まれた。月島はあえて言葉を発しない。言葉で説得するよりも待つことが大切な瞬間は医療現場では少なくない。そして必要な沈黙の時間は続く。
電子カルテのハードディスクがデータを書き込む機械的な音を一瞬たてた。空気は凛としている。後は患者本人が──緊急手術を受けるか帰宅するかを──決めるだけである。一身専属権と呼ばれる本人のみが有する権利だ。医師は最終的に患者本人の決定に従うだけだ。もちろん十分な説明を尽くす必要があることは言うまでもないが︙︙
「ウッ、ヒッ」
診察室に突然、聞きなれない音が響いた。誰かの携帯電話の音であろうか？ こんな時はドラマならきっと診察室にいる四人が互いの顔を見合わせるだろう。月島はそう思った。もちろん今回は誰も視線を合わせようとはしない。
一呼吸おいて、患者が突然笑い出した。すかさず彼の妻も笑う。そして旭が「すいません。よりによってこんな時に」とでも言いたげに頭を下げた。
吃逆だったのだ。この緊迫した場面は何としても避けようと努力に努力を重ねたにもかかわらず、漏れ出てしまった旭の吃逆の音だっだ。月島は通常の吃逆の音とは異なった理由を、そのように分析した。月島も微笑んだ。ただし彼は吃逆の音にではなくて、彼女の人知れず頑張った努力に対して敬意を表してである。
「分かりました、先生。手術をお願いします」
その男性は月島に視線を戻して、はっきりとそう言った。妻も無言で頷いた。
「あなたもお大事にしてください」
男性は旭に向かってそう続けた。彼女はうまく笑えず黙ったまま視線を床に落としている。
どうやら旭はその日の朝から吃逆が続いていたようだ。言葉を発すると集中力が途切れるためか、吃逆の音を漏らしてしまう。だからできるだけ口数を減らしていたのだと教えてくれた。あの緊迫した状況下で吃逆の音が響いてしまったことも謝罪してくれたが、もちろん謝ることではない。「初めから教えてくれれば良かったのに」と月島は答えた。ふと気づくと旭の吃逆は止まり、いつもの口調に戻っていた。相変わらず活気があるとは言えないが︙︙
＊
患者から緊急手術の同意が得られた。前もって連絡しておいた循環器内科の櫻木は、隣室に待機していたようだ。吃逆の一件を知っているか否かは不明であるが、ともかく同意を取得した後に診察室に入って来てくれた。いつもとたがわず、マスクをしていてもとても美しいと月島は思った。櫻木は吃逆が止まらない時にはどうするのか、どんな音を発するのかと一瞬考えたが、どうでもいいことなのですぐに頭を切り替えた。
櫻木ははアンギオ室や集中治療室にも連絡済であることを教えてくれた。実に仕事が早い。彼女は患者に自己紹介して簡単な診察をすませると、「心配する必要はないですよ」と天使のような笑顔で二人の不安を取り除いた。月島の方を振り返り頭をぺこりと下げた後、アンギオ室に向かって診察室を出て行った。
予想外に長引いた外来がようやく終了して、月島がカテーテル室に現れた頃には、ちょうど緊急手術が終了しようとしていた。冠動脈には予想通り、高度狭窄が存在した。右冠動脈の近位部で九十九％の狭窄であり、対側の左冠動脈からの側副血行路はない。もし昨夜に同部位が完全に閉塞していれば、かなり大きな心筋梗塞になり、この男性は二～三割の確率で病院にたどり着くことなく布団の中で冷たくなっていただろう。全く恐ろしい病気だ。初回発作で死に至る可能性があることが癌とは根本的に異なる。心電図を定期的に記録しても非発作時の検査には異常が出てこない。本当に厄介な疾患である。
手術を終えた櫻木が月島に気づいた。右冠動脈の起始異常があったため、病変部までデバイスを運ぶガイディングカテーテルの固定に難渋したようだ。しかし最終的には狭窄部位にステントと呼ばれる金属製のメッシュを留置して、満足できる結果を得ることに成功した。術衣を脱ぎながら月島の方に来てくれた櫻木は、そんなことを教えてくれた。「子供とペットと美人は常に癒しである」とある有名人が言っていたことを月島はふと思いだした。全くその通りだ。生と死のはざまになるアンギオ室を、彼女の笑顔がとても魅力的なものに変えてくれる。月島はアンギオ室で櫻木をみるといつも、そんな風に感じる。
日没を迎えた頃、月島が集中治療室に寄ると、櫻木がベットサイドで患者と話をしていた。
「もう胸はだいじょうぶですか？」
「ええ、今朝から発作はないので」
「でもよかったです。不安定な状態だったので」
「そうですが︙︙実感はないのですが」
月島に気が付いた櫻木はぺこりと頭を下げた。
「先生、あの時はありがとうございました」
患者も月島に気づいて礼を述べた。
「緊急手術を決心されたのは正解でしたね」
「実は絶対に帰宅するつもりでしたが︙︙あの吃逆を耳にするまでは」
男性はそう言って笑った。櫻木も微笑んでいる。それを見て月島も頬が緩んだ。
これが臨床の醍醐味だと月島は思った。
「今日の外来は平和だね。この調子なら午前中に終了したりして」
月島は軽い調子で、隣にいる事務職の旭に声をかけた。
「そう、です、ね」
旭に元気がない。いつも活気があるというわけではないが、今日はどこか調子が悪そうだ。朝から時折マスクを外して、口の中に飴を放り込んでいる。これで五個目だろうか、およそ三十分に一個のペースだ。旭の声のトーンはいつもと変わらないが、なにかしゃべりにくそうだ。そして口数も、いつにも増して少ないような気がする。
そういえば彼女の同僚が、旭は年末年始に体調を崩して家に引きこもっていたことを外来前に教えてくれた。近隣ではインフルエンザ（ほとんどＡ型）が流行し、コロナも依然散発している。旭はいずれも陰性であったそうだが、これはあまりあてにはならない。発症早期では検査が偽陰性になることがあるためだ。一～二日後に再検すればより確実であるが、コストと時間の問題がある。そんなことをする人は少数派で、もちろん彼女も検査は一度きりである。
旭はいつも通り薄着で仕事をしていた。病院から支給されている青いストライプの入ったオーバーブラウスのみだ。素材は分からないが通気性の高そうな夏仕様で、保温性に優れているとは思えない。この冬の時期には多くの職員が長袖のオーバーブラウスにベストを重ね着していることとは対照的だ。中には厚めのロングカーデガンを羽織っている女子職員もいる。さすがに旭でも、感染症に罹患していればこんな薄着は辛いだろう月島は思った。
本日の外来は予約時間に来院しない患者が多かった。想定外の用事で予定受診をキャンセルする患者は少なくない。何かと行事が多いこの時期なので、予約自体を忘れている患者もいるだろう。特段予定がなくても、残薬があれば正月明けくらいはゆっくりしたい気持ちもわからないではない。来院しない理由がなににせよ、今日のようにゆったりとした外来も悪くないものだと月島は思っていた。
そんな来院しない患者の一人に、モカネ病院の患者支援センターの責任者である姫隘路がいた。そして月島は彼をテルと呼んでいる。
「テルはどうしたの？ 十時の予約時間はとうに過ぎているんだけど︙︙」
「姫隘路さんは、まだ、受付も、されて、ません」
旭はやはりしゃべりにくそうだ。
「診察を忘れているのかな？」
「電話、して、みましょう、か？」
「そうだな、頼む」
旭が病院支給の携帯で電話している間に、診察室の固定電話が鳴った。こんな時、月島が患者を診察中なら、隣の診察室の事務員が来て電話に対応してくれる。何もすることがなかった月島が受話器をとると、相手は友人の外科医で、臨時に患者を診察して欲しいという依頼であった。午前中の診察ならわざわざこのような連絡は不要であるが、患者の来院がお昼をかなり過ぎるようだ。もちろん了承して電話を切った。
旭も電話を終えた。どうやらテルは今日は有休を取得していたようだ。院内職員を知己の医師が外来でフォローすることはよくある。月島たちが勤務するモカネ病院は急性期病院なので、通常なら安定例や軽症例はすべて近隣のクリニックへ紹介している。しかし利便性を考慮すると職員が院内での診察を希望するのももっともだ。仕事の合間に受診を済ませることができるからだ。そして予約変更も容易であるため、予定日に来院しないことが一般の患者よりも多い。
旭が月島に尋ねた。
「先生の、電話は、なん、でした？」
「ああ、忘れるところだった。外科から胸痛患者がくるよ」
「そう、です、か︙︙」
旭はそう答えた。
「どうやら一時頃になるみたい」
「分かり、ました」
一呼吸おいて、旭は不自然にそう言った。何かが喉に引っかかっていて、飲み込みたいが飲み込めないような状況なのだろうか。そんなふうに月島は感じた。
＊
外科からの紹介症例が実際に循環器内科外来を受診したのは、午後二時を少し回った頃であった。症例は中年の男性で、昨夜の三時頃に左胸の圧迫感で目が覚めたようだ。その圧迫感は左肩から顎に放散し、冷や汗も伴っていた。どうしようかと暗闇の中で考えているうちに、再び眠りに落ちてしまったようだ。今朝目覚めたときには、もう胸は何ともなかったと述べた。若い頃に数年間タバコを吸っていたが、それ以外は動脈硬化の危険因子は見当たらない。本人は、年末年始の疲れかストレスだろうとたかをくくっている。しかし月島は急性冠症候群を危惧した。急性冠症候群とは急性心筋梗塞や不安定狭心症などの総称で、緊急手術を行わなければ命を落とすこともある。
紹介してくれた外科医が前もって必要な検査をオーダーしておいてくれた。とても優秀なやつである。月島は常々、病院には二種類の医師がいると思っている。自分の専門外なら何も検査せずに丸投げしてくる医師と必要な検査を前もって行ってくれる医師である。今回の外科医はもちろん後者で、月島の好むスタンスだ。
その外科医の実年齢は月島よりも七～八歳は下である。しかし軽く見積もっても十歳以上は老けて見える。病院ではケーシーと呼ばれる首元が短いタートルネックで肩でボタンを留める医療用ウェアを着ているが、出勤時の服装はとても洒落ている。肌触りのなめらかなカシミヤのハイネックセーターにジャケットを羽織り、細めのパンツの下は、つま先が程よく長いロングノーズの本革靴だ。靴と鞄とベルトはいつも色を統一している。
月島は彼が依頼してくれた検査の結果を確認した。そのすべてが正常であったが、病歴から示唆される急性冠症候群の疑いは揺らがない。一刻も早い冠動脈の評価が望まれると思った。冠動脈とは心臓を取り囲む動脈で、その閉塞が致死的な経過に繋がる。本邦では癌が最大の死因であるが、欧米をはじめとする多くの諸外国では、半数以上が冠動脈疾患に関連する死を迎える。元気だった中高年を突然襲う非情な病気である。
状況を把握していない目の前の患者からは笑顔がこぼれている。そんな重篤な病態であるかもしれないとは理解できないのだろう。何の症状もないから止むを得ない。しかし速やかにカテーテル検査と呼ばれる冠動脈の造影が必要なのだ。
月島は患者夫婦に、言葉を慎重に選びながら説明する。しかし二人とも笑顔を崩さず、患者は来週には重要な仕事があるからと取り合ってくれない。月島は徐々にインパクトのある用語を織り交ぜていく。放置すれば死亡する可能性があることを伝える。患者の眼の色が少しづつではあるが変わってきたことが見て取れる。
検査で冠動脈に高度の狭窄や閉塞があるときは、速やかにインターベンションと呼ばれるカテーテル手術に移行することも伝えた。通常の死亡率は一％未満であるが、本例のように緊急で行う場合は、多少なりともそのリスクは上昇する。その他、心破裂や致死性不整脈、脳梗塞などの重篤な合併症が生じ得ることも説明した。そして手術に対する同意書を本人に手渡した。
患者とその妻の顔から笑みはもはや消えている。診察室は静寂に包まれた。月島はあえて言葉を発しない。言葉で説得するよりも待つことが大切な瞬間は医療現場では少なくない。そして必要な沈黙の時間は続く。
電子カルテのハードディスクがデータを書き込む機械的な音を一瞬たてた。空気は凛としている。後は患者本人が──緊急手術を受けるか帰宅するかを──決めるだけである。一身専属権と呼ばれる本人のみが有する権利だ。医師は最終的に患者本人の決定に従うだけだ。もちろん十分な説明を尽くす必要があることは言うまでもないが︙︙
「ウッ、ヒッ」
診察室に突然、聞きなれない音が響いた。誰かの携帯電話の音であろうか？ こんな時はドラマならきっと診察室にいる四人が互いの顔を見合わせるだろう。月島はそう思った。もちろん今回は誰も視線を合わせようとはしない。
一呼吸おいて、患者が突然笑い出した。すかさず彼の妻も笑う。そして旭が「すいません。よりによってこんな時に」とでも言いたげに頭を下げた。
吃逆だったのだ。この緊迫した場面は何としても避けようと努力に努力を重ねたにもかかわらず、漏れ出てしまった旭の吃逆の音だっだ。月島は通常の吃逆の音とは異なった理由を、そのように分析した。月島も微笑んだ。ただし彼は吃逆の音にではなくて、彼女の人知れず頑張った努力に対して敬意を表してである。
「分かりました、先生。手術をお願いします」
その男性は月島に視線を戻して、はっきりとそう言った。妻も無言で頷いた。
「あなたもお大事にしてください」
男性は旭に向かってそう続けた。彼女はうまく笑えず黙ったまま視線を床に落としている。
どうやら旭はその日の朝から吃逆が続いていたようだ。言葉を発すると集中力が途切れるためか、吃逆の音を漏らしてしまう。だからできるだけ口数を減らしていたのだと教えてくれた。あの緊迫した状況下で吃逆の音が響いてしまったことも謝罪してくれたが、もちろん謝ることではない。「初めから教えてくれれば良かったのに」と月島は答えた。ふと気づくと旭の吃逆は止まり、いつもの口調に戻っていた。相変わらず活気があるとは言えないが︙︙
＊
患者から緊急手術の同意が得られた。前もって連絡しておいた循環器内科の櫻木は、隣室に待機していたようだ。吃逆の一件を知っているか否かは不明であるが、ともかく同意を取得した後に診察室に入って来てくれた。いつもとたがわず、マスクをしていてもとても美しいと月島は思った。櫻木は吃逆が止まらない時にはどうするのか、どんな音を発するのかと一瞬考えたが、どうでもいいことなのですぐに頭を切り替えた。
櫻木ははアンギオ室や集中治療室にも連絡済であることを教えてくれた。実に仕事が早い。彼女は患者に自己紹介して簡単な診察をすませると、「心配する必要はないですよ」と天使のような笑顔で二人の不安を取り除いた。月島の方を振り返り頭をぺこりと下げた後、アンギオ室に向かって診察室を出て行った。
予想外に長引いた外来がようやく終了して、月島がカテーテル室に現れた頃には、ちょうど緊急手術が終了しようとしていた。冠動脈には予想通り、高度狭窄が存在した。右冠動脈の近位部で九十九％の狭窄であり、対側の左冠動脈からの側副血行路はない。もし昨夜に同部位が完全に閉塞していれば、かなり大きな心筋梗塞になり、この男性は二～三割の確率で病院にたどり着くことなく布団の中で冷たくなっていただろう。全く恐ろしい病気だ。初回発作で死に至る可能性があることが癌とは根本的に異なる。心電図を定期的に記録しても非発作時の検査には異常が出てこない。本当に厄介な疾患である。
手術を終えた櫻木が月島に気づいた。右冠動脈の起始異常があったため、病変部までデバイスを運ぶガイディングカテーテルの固定に難渋したようだ。しかし最終的には狭窄部位にステントと呼ばれる金属製のメッシュを留置して、満足できる結果を得ることに成功した。術衣を脱ぎながら月島の方に来てくれた櫻木は、そんなことを教えてくれた。「子供とペットと美人は常に癒しである」とある有名人が言っていたことを月島はふと思いだした。全くその通りだ。生と死のはざまになるアンギオ室を、彼女の笑顔がとても魅力的なものに変えてくれる。月島はアンギオ室で櫻木をみるといつも、そんな風に感じる。
日没を迎えた頃、月島が集中治療室に寄ると、櫻木がベットサイドで患者と話をしていた。
「もう胸はだいじょうぶですか？」
「ええ、今朝から発作はないので」
「でもよかったです。不安定な状態だったので」
「そうですが︙︙実感はないのですが」
月島に気が付いた櫻木はぺこりと頭を下げた。
「先生、あの時はありがとうございました」
患者も月島に気づいて礼を述べた。
「緊急手術を決心されたのは正解でしたね」
「実は絶対に帰宅するつもりでしたが︙︙あの吃逆を耳にするまでは」
男性はそう言って笑った。櫻木も微笑んでいる。それを見て月島も頬が緩んだ。
これが臨床の醍醐味だと月島は思った。