第5話 Ⅳ音
「先生ですか? ILで上がっています」
「分かった。病院に向かう」
月島は電話を切ると、枕元に置いているデジタル時計の上部にあるバーを右手で押した.暗闇の中に青いライトで時間が映しだされる。午前三時を少し回ったところだ。電話の相手は、月島の部下である櫻木だ。名乗らなくても声で分かる。彼女は美人にありがちな声とでもいえるだろうか。おそらく少しピッチが高いのだ。小顔ゆえに口腔内の容積が小さいため、必然的にそのような声になるのだろうと月島は勝手に分析している。いずれにせよ彼女のとても目立つ外観にふさわしい声であることは確かだ。月島は櫻木の声を聴くたびにそんな風に思っていた。
IとLとは心電図の誘導名である。仮に櫻木の言葉を正確に記すならば、「標準十二誘導心電図のI誘導とL誘導でST部分が上昇している」ということになるであろうか。しかし医師は──少なくとも循環器内科医は──そんなまどろっこしい言い方は決してしない。ちなみにI誘導とL誘導とは左心室の側壁を反映し、ST上昇は急性心筋梗塞を示唆する。よってモカネ病院循環器内科の櫻木からの電話は「救急室に側壁の急性心筋梗塞の患者がいるので、すぐに病院へ来てください」という意味だ。月島は櫻木の上司で循環器内科の部長である。カテーテルを用いた緊急手術(冠動脈インターベンション)が必要なのだ。
月島はベットから降りると同時に、スマホでタクシーを呼ぶアプリを起動させた。都会であっても、タクシーを確保するのに時間を要する時間帯があるからだ。月島の目覚めはシャープだ。眠い目をこすったり、布団の温もりに後ろ髪を引かれることはない。いつも四時五十五分に起きているため、三時の目覚めなら少し早起きした程度なのだ。すばやく服を着替えてさっと顔を洗った。いつでも病院に向かうことができる。
月島の準備は整ったが、予想通りタクシーが捕まらない。配車を探していることを示す円形の矢印が、スマホの画面の左下でクルクルと回り続けいてる。前日は金曜の夜であり、遅くまで楽しんで終電を逃した人たちがタクシーを使っているのであろうか。月島は自家用車で病院に向かうことを少し考えた。確か昨夜はドラフトの缶ビールを一本と半分ほど飲んだ。もう少し飲みたかったが、うまく酔えそうな気がしなかったため、残りのビールを台所のシンクに流すと、早々と眠りに着いた。「九時まで飲んでいたとしたら、およそ六時間か︙︙」月島はため息をついた。
月島がこの程度の酒量で酔うことはないが、運が悪ければ酒気帯び運転になる。事故でも引き起こそうものなら、管理職として大問題だ。病院運営を手掛ける母体の大企業への影響も計り知れない。「やはり自家用車の選択肢はないな」月島は玄関で革靴の紐を締めながら、そう考えた。「妻を起こして病院まで送ってもらうか」一瞬そう思ったが、すぐにその選択肢を否定した。絶対に家族を巻き込まないというのが、月島が長年貫いてきたポリシーだ。そんな彼の悩みに共感してくれたわけではないだろうが、スマホのアプリに反応が見られた。一台のタクシーが見つかったのだ。どうやら場所は一駅向こうの広場である。到着までさらに五分ほどかかりそうだが、取り合えず一安心だ。
深夜から未明の場合、月島はタクシーが着く少し前に玄関を出ることにしている。家が閑静な住宅街にあり、車のエンジン音で家族を起こしたくないからだ。電気あるいはハイブリッドのタクシーは都市部でもまだまだ少数派だ。タクシーは決まって幼稚園や小学校がある南の方から一本道を北上してくる。家を出て道を南下すれば必ず途中でタクシーに遭遇するというわけだ。もっともアプリで配車されたタクシーの位置を逐一把握することはできるが、それは月島のスタイルではない。代わりに歩きながらポケモンGoをするのだ。彼はなぜかこのゲームをとても愛している。
この時間なら病院までは、地道を走っても二十分もあれば到着できる。もっともこれが日中なら、都市高速を使用しても一時間以上を要するから、都会はめんどくさい。月島は飛ばすタクシーの窓を右から左へと流れ去る街の明かりを見るともなく眺めていた。皆、一体こんな時間に何をしているのだろう。これから一日が始まる人かもしれない。パン屋さんやお豆腐屋さんだろうか。でもこんな都会にお豆腐屋なんてあるのだろうか? 逆に長い一日を終えようとしている人の可能性もある。飲み屋などスタッフがこれに相当するか。そういえば金曜の夜だったな。月島はそんなことを、ぼんやりと考えていた。
*
病院の時間外出入口にタクシーが到着した。
「ここで待っていてください。事務の方が会計をしてくれます」
「分かりました」
月島はそう言ってタクシーのドアが開くと同時に車を降りた。月島が勤務する病院では、緊急の呼び出し時には、病院がタクシー代を払ってくれる。そして運転手もそのような事情を熟知している。セキュリティーカードを通して院内に入った月島は、当直をしている事務員にタクシーの対応を任せ、救急室に急いだ。しかしそこには櫻木の姿はなかった。月島の到着に気が付いた看護師が声をかけてくれた。
「櫻木先生の患者さんですね。さっきカテ室に向かいましたよ」
「そうか、分かった」
「でも先生、私服だと分かりにくいですね」
「そうだな。いつも白衣だからな」
「でも私服のほうが若くて素敵ですよ」
明るい看護師との他愛もないやり取りで、無意識に高まっていた緊張が少しほぐれた。月島は救急室を出てアンギオ室に向かった。距離にして百メートル程度であるだろうか。日中には多くの患者や家族で込み合うエリアであるが、この時間帯はもちろん無人である。静寂すぎると人は自然と足早になる。そして凛とした空気感は、頭を仕事モードに変えるのにちょうどいい。月島はつい先ほど、若く見えると言われたことを思い返した。そういえば先月、櫻木にも同じようなことを言われたな。もっともそんなことを言われること自体が、歳をとったということだ。月島はそう思った。
アンギオ室に着くと、櫻木がすでにカテーテル検査を始めていた。助手を務めているのは、おそらく当直の初期研修医であろう。櫻木のように十分に経験を積んだ循環器内科医であればカテーテルの検査を一人で行うことは可能である。しかし手術、つまり冠動脈インターベンションになった場合にはやはり助手が欲しい。櫻木といえども初期研修医のサポートだけでは心許ない。だから月島が呼ばれたのである。
病院に到着したことを、放射線の防護ガラスを通して櫻木に伝えると、マスク越しに笑み返してくれた。月島はこの瞬間が好きである。帽子やマスクで露出している部分は両眼と眉毛、鼻根くらいだろうか。それでも櫻木の場合、とても強い特有のオーラが隠せないし隠さない。周りにいる若い女性研修医や女性看護師が霞んでしまう。月島は、外見がこれほど目立つ女性を見たことは、櫻木を除いてただの一度だけだ。
それは福岡で開催される学会で講演するため、新幹線の改札口に向かっていた数年前のことである。少し開けたところに大勢の人だかりができていた。その切れ目から見えたのは韓国の有名な歌手であった。真っ赤なドレスに白のハイヒール︙︙脳天に電気が流れるとはこういうことだと思った。周囲にはボディーガードらしき屈強そうな男性が複数名いた。すぐに冷静になった月島は、グループで活動している彼女がどうして一人なのだろうかと思いながら、その場を通り過ぎたのだった。
月島は術衣に着替えるためアンギオ室の隣にある更衣室に入った。靴や靴下も専用のものに履き替える。カテーテルを用いた手術なので低侵襲ではあるが、意外と出血による汚染が少なくない。以前に自分の靴下で冠動脈インターベンションを行ったときに、グレーの靴下が鮮血で半分ほど汚れてしまい、術後にアンギオ専用の靴下に履き替て帰宅したことがあった。着替え終わろうかとしたときに、看護師がカーテン越しに、冠動脈には治療を要する病変がなかったことを教えてくれた。
「本当?」
「ええ、インターベンションは無くてもよさそうです」
「そうか」
月島はこのとき三つのことを同時に考えた。患者にとって良かったこと(緊急検査の負担はかけたが︙︙)、夜明け前にはタクシーで帰宅できそうなこと、そしてどうして病変がなかったのかということ、である。月島はせっかく着替えた術衣を脱いで、ロッカーに入れたばかりの元の服装を身に着けた。綿のボタンダウンのシャツにはまだ自分の体温の痕跡が残っていた。アンギオ室に戻ると、ちょうどそこへ検査を終えたばかりの櫻木がやってきた。
「先生、こんな時間にお呼びだてしてすいませんでした」
そう言って頭をぺこりと下げた。
「どうせ起きる時間だったから、大丈夫だよ」
櫻木は笑顔になった。月島が早起きであることを知っているのだ。
「それよりも冠動脈に狭窄がなかったけど、どう思う?」
「絶対に病変があると思ったんですが︙︙」
「僕もそう思った」
月島は櫻木に気を使ってそう言ったのではない。本当にそう思っていたのだ。たこつぼ心筋症という急性心筋梗塞に似た病態がある。胸痛で発症して心電図でST部分の上昇を認めるが、冠動脈に閉塞を認めない病態である。高齢女性に多くストレスなどで誘発されるが、本例とはやはり違う。病歴や心電図、心エコー図すべてが虚血性心疾患に合致する。
「冠攣縮でしょうか? 心膜炎や心筋炎の可能性も否定できませんが︙︙」
「そうだな。とにかくICUで経過をみよう」
初期研修医も二人の会話を聞いていた。
*
月島は一旦、病院の自室に戻った。副院長室は役員エリアにあるため、この時間帯では暗闇の奥になる。おまけに月島の部屋は西一面がすべてガラス張りであり、日没後はとても冷え込む。エアコンのスイッチを入れるが、そうそう温まるものではない。隣のパントリーに行って暖かいコーヒーでも淹れればいいのだが、月島は年中アイスコーヒーである。寒さで体を丸めながら、PCを立ち上げてメールの受信箱を確認してみた。昨日、病院を離れてから半日もたっていないが、すでに五十ほどのメールが溜まっている。ほとんどが英語のメールで、論文の投稿を促す類のものであった。これらは論文の掲載に多額の支払いを要する、いわゆるハゲタカジャーナルからのリクエストが大部分だ。拒否リストに追加しても、どういう訳かすり抜けて受信箱まで辿り着くから不思議だ。やれやれと月島は思った。
帰る前にICUに立ち寄ってみると、櫻木と初期研修医がカルテを入力していた。月島はベットサイドに行って、患者と言葉を交わしながら、アンギオ室ではできなかった聴診を行った。聴診器の膜部分を胸骨左縁第二肋間にあててみるが、特に問題はない。心周期を通じて心雑音を聴取しない。Ⅱ音は吸気時にわずかに分裂しているが、肺動脈成分の亢進はない。が、次に聴診器のベル部分を心尖部にそっと乗せてみた時に彼の顔が少し曇った。聴診器を強く胸に押し当て心音の変化を確認した月島は確信した。
月島は櫻木と研修医のところへ戻った。
そして研修医に聞いてみた。
「今回の症状は胃じゃないの?」
「消化性潰瘍の既往はありません。ピロリ検査も陰性だったようです」
ピロリ菌とは強酸性の胃内に生息する細菌である。この菌が陰性であれば、胃潰瘍や胃癌を発症する確率は格段に低下することが知られている。
「じゃ、胆嚢は? 胆石発作でST変化を生じることは少なくないよ」
「エコーで胆嚢や胆管の拡大はありませんでした」
なかなか優秀な研修医である。
月島は次に櫻木に問うた。
「でもこれは心筋虚血だね。どうしてだと思う?」
急な質問に櫻木は少し驚いて、大きな眼で何度か瞬きをした。月島が身体所見の知識に長けていることは十分すぎるくらい知っている。本例は冠動脈に狭窄はないが心筋虚血を生じた、いわゆるINOCAと呼ばれる病態である。きっと心臓の表面にある冠動脈よりもはるかに細径の動脈を主体とした心筋虚血だ。
「もしかしてⅣ音ですか?」
「そうだ」
櫻木の顔に安堵が戻った。Ⅳ音は心室コンプライアンスの低下した病態で出現する低調な過剰心音である。そして心筋コンプライアンスの低下する主たる病態は左室肥大と心筋虚血である。本例に肥大がないことは、救急室でのベットサイド心エコー図で確認している。
三人で患者の元に赴き、再度聴診をさせてもらった。櫻木は一分程かけて丁寧に聴診を行い、月島の意図することを明瞭に理解したのか深く頷いている。聴診器を持参していなかった初期研修医は、月島の聴診器を借りて心臓の音を確認した。そして明瞭なⅣ音を聴取し感動したらしく、「月島先生の聴診器はすごくいいですね」と言った。聴診器もさることながら、本例のⅣ音がそれほど明瞭であったということだ。ちなみに月島の聴診器は、ウェルチアレン社製のハーベイデラックス(ダブルヘッド)であった。月島は聴診器コレクターで十本以上を所有しているが、この聴診器はお気に入りの一品である。
「入院中に心臓MRIやBMIPP検査などを行ってみます」
櫻木は月島にそういうと頭をもう一度ぺこりと下げた。そういえば今回は、櫻木はマスクを一度も取らなかったなと月島は思った。いつもは緊急カテーテルが終わったら外しているはずである。ひょっとして口紅などを塗っていないためかも、などと月島は考えた。櫻木は普段からどちらかというと薄化粧であるが、もちろんその素顔を見たことはない。月島はマスクの下にある桜木の口元を少し想像してみたが、すぐに頭を切り替えた。循環器内科医としては全くどうでもいいことである。
ICUを出た月島は、自室に聴診器を置いた後、病院の時間外出入り口に向かった。
五分前に呼んだタクシーがそろそろ到着する頃だろう。
「分かった。病院に向かう」
月島は電話を切ると、枕元に置いているデジタル時計の上部にあるバーを右手で押した.暗闇の中に青いライトで時間が映しだされる。午前三時を少し回ったところだ。電話の相手は、月島の部下である櫻木だ。名乗らなくても声で分かる。彼女は美人にありがちな声とでもいえるだろうか。おそらく少しピッチが高いのだ。小顔ゆえに口腔内の容積が小さいため、必然的にそのような声になるのだろうと月島は勝手に分析している。いずれにせよ彼女のとても目立つ外観にふさわしい声であることは確かだ。月島は櫻木の声を聴くたびにそんな風に思っていた。
IとLとは心電図の誘導名である。仮に櫻木の言葉を正確に記すならば、「標準十二誘導心電図のI誘導とL誘導でST部分が上昇している」ということになるであろうか。しかし医師は──少なくとも循環器内科医は──そんなまどろっこしい言い方は決してしない。ちなみにI誘導とL誘導とは左心室の側壁を反映し、ST上昇は急性心筋梗塞を示唆する。よってモカネ病院循環器内科の櫻木からの電話は「救急室に側壁の急性心筋梗塞の患者がいるので、すぐに病院へ来てください」という意味だ。月島は櫻木の上司で循環器内科の部長である。カテーテルを用いた緊急手術(冠動脈インターベンション)が必要なのだ。
月島はベットから降りると同時に、スマホでタクシーを呼ぶアプリを起動させた。都会であっても、タクシーを確保するのに時間を要する時間帯があるからだ。月島の目覚めはシャープだ。眠い目をこすったり、布団の温もりに後ろ髪を引かれることはない。いつも四時五十五分に起きているため、三時の目覚めなら少し早起きした程度なのだ。すばやく服を着替えてさっと顔を洗った。いつでも病院に向かうことができる。
月島の準備は整ったが、予想通りタクシーが捕まらない。配車を探していることを示す円形の矢印が、スマホの画面の左下でクルクルと回り続けいてる。前日は金曜の夜であり、遅くまで楽しんで終電を逃した人たちがタクシーを使っているのであろうか。月島は自家用車で病院に向かうことを少し考えた。確か昨夜はドラフトの缶ビールを一本と半分ほど飲んだ。もう少し飲みたかったが、うまく酔えそうな気がしなかったため、残りのビールを台所のシンクに流すと、早々と眠りに着いた。「九時まで飲んでいたとしたら、およそ六時間か︙︙」月島はため息をついた。
月島がこの程度の酒量で酔うことはないが、運が悪ければ酒気帯び運転になる。事故でも引き起こそうものなら、管理職として大問題だ。病院運営を手掛ける母体の大企業への影響も計り知れない。「やはり自家用車の選択肢はないな」月島は玄関で革靴の紐を締めながら、そう考えた。「妻を起こして病院まで送ってもらうか」一瞬そう思ったが、すぐにその選択肢を否定した。絶対に家族を巻き込まないというのが、月島が長年貫いてきたポリシーだ。そんな彼の悩みに共感してくれたわけではないだろうが、スマホのアプリに反応が見られた。一台のタクシーが見つかったのだ。どうやら場所は一駅向こうの広場である。到着までさらに五分ほどかかりそうだが、取り合えず一安心だ。
深夜から未明の場合、月島はタクシーが着く少し前に玄関を出ることにしている。家が閑静な住宅街にあり、車のエンジン音で家族を起こしたくないからだ。電気あるいはハイブリッドのタクシーは都市部でもまだまだ少数派だ。タクシーは決まって幼稚園や小学校がある南の方から一本道を北上してくる。家を出て道を南下すれば必ず途中でタクシーに遭遇するというわけだ。もっともアプリで配車されたタクシーの位置を逐一把握することはできるが、それは月島のスタイルではない。代わりに歩きながらポケモンGoをするのだ。彼はなぜかこのゲームをとても愛している。
この時間なら病院までは、地道を走っても二十分もあれば到着できる。もっともこれが日中なら、都市高速を使用しても一時間以上を要するから、都会はめんどくさい。月島は飛ばすタクシーの窓を右から左へと流れ去る街の明かりを見るともなく眺めていた。皆、一体こんな時間に何をしているのだろう。これから一日が始まる人かもしれない。パン屋さんやお豆腐屋さんだろうか。でもこんな都会にお豆腐屋なんてあるのだろうか? 逆に長い一日を終えようとしている人の可能性もある。飲み屋などスタッフがこれに相当するか。そういえば金曜の夜だったな。月島はそんなことを、ぼんやりと考えていた。
*
病院の時間外出入口にタクシーが到着した。
「ここで待っていてください。事務の方が会計をしてくれます」
「分かりました」
月島はそう言ってタクシーのドアが開くと同時に車を降りた。月島が勤務する病院では、緊急の呼び出し時には、病院がタクシー代を払ってくれる。そして運転手もそのような事情を熟知している。セキュリティーカードを通して院内に入った月島は、当直をしている事務員にタクシーの対応を任せ、救急室に急いだ。しかしそこには櫻木の姿はなかった。月島の到着に気が付いた看護師が声をかけてくれた。
「櫻木先生の患者さんですね。さっきカテ室に向かいましたよ」
「そうか、分かった」
「でも先生、私服だと分かりにくいですね」
「そうだな。いつも白衣だからな」
「でも私服のほうが若くて素敵ですよ」
明るい看護師との他愛もないやり取りで、無意識に高まっていた緊張が少しほぐれた。月島は救急室を出てアンギオ室に向かった。距離にして百メートル程度であるだろうか。日中には多くの患者や家族で込み合うエリアであるが、この時間帯はもちろん無人である。静寂すぎると人は自然と足早になる。そして凛とした空気感は、頭を仕事モードに変えるのにちょうどいい。月島はつい先ほど、若く見えると言われたことを思い返した。そういえば先月、櫻木にも同じようなことを言われたな。もっともそんなことを言われること自体が、歳をとったということだ。月島はそう思った。
アンギオ室に着くと、櫻木がすでにカテーテル検査を始めていた。助手を務めているのは、おそらく当直の初期研修医であろう。櫻木のように十分に経験を積んだ循環器内科医であればカテーテルの検査を一人で行うことは可能である。しかし手術、つまり冠動脈インターベンションになった場合にはやはり助手が欲しい。櫻木といえども初期研修医のサポートだけでは心許ない。だから月島が呼ばれたのである。
病院に到着したことを、放射線の防護ガラスを通して櫻木に伝えると、マスク越しに笑み返してくれた。月島はこの瞬間が好きである。帽子やマスクで露出している部分は両眼と眉毛、鼻根くらいだろうか。それでも櫻木の場合、とても強い特有のオーラが隠せないし隠さない。周りにいる若い女性研修医や女性看護師が霞んでしまう。月島は、外見がこれほど目立つ女性を見たことは、櫻木を除いてただの一度だけだ。
それは福岡で開催される学会で講演するため、新幹線の改札口に向かっていた数年前のことである。少し開けたところに大勢の人だかりができていた。その切れ目から見えたのは韓国の有名な歌手であった。真っ赤なドレスに白のハイヒール︙︙脳天に電気が流れるとはこういうことだと思った。周囲にはボディーガードらしき屈強そうな男性が複数名いた。すぐに冷静になった月島は、グループで活動している彼女がどうして一人なのだろうかと思いながら、その場を通り過ぎたのだった。
月島は術衣に着替えるためアンギオ室の隣にある更衣室に入った。靴や靴下も専用のものに履き替える。カテーテルを用いた手術なので低侵襲ではあるが、意外と出血による汚染が少なくない。以前に自分の靴下で冠動脈インターベンションを行ったときに、グレーの靴下が鮮血で半分ほど汚れてしまい、術後にアンギオ専用の靴下に履き替て帰宅したことがあった。着替え終わろうかとしたときに、看護師がカーテン越しに、冠動脈には治療を要する病変がなかったことを教えてくれた。
「本当?」
「ええ、インターベンションは無くてもよさそうです」
「そうか」
月島はこのとき三つのことを同時に考えた。患者にとって良かったこと(緊急検査の負担はかけたが︙︙)、夜明け前にはタクシーで帰宅できそうなこと、そしてどうして病変がなかったのかということ、である。月島はせっかく着替えた術衣を脱いで、ロッカーに入れたばかりの元の服装を身に着けた。綿のボタンダウンのシャツにはまだ自分の体温の痕跡が残っていた。アンギオ室に戻ると、ちょうどそこへ検査を終えたばかりの櫻木がやってきた。
「先生、こんな時間にお呼びだてしてすいませんでした」
そう言って頭をぺこりと下げた。
「どうせ起きる時間だったから、大丈夫だよ」
櫻木は笑顔になった。月島が早起きであることを知っているのだ。
「それよりも冠動脈に狭窄がなかったけど、どう思う?」
「絶対に病変があると思ったんですが︙︙」
「僕もそう思った」
月島は櫻木に気を使ってそう言ったのではない。本当にそう思っていたのだ。たこつぼ心筋症という急性心筋梗塞に似た病態がある。胸痛で発症して心電図でST部分の上昇を認めるが、冠動脈に閉塞を認めない病態である。高齢女性に多くストレスなどで誘発されるが、本例とはやはり違う。病歴や心電図、心エコー図すべてが虚血性心疾患に合致する。
「冠攣縮でしょうか? 心膜炎や心筋炎の可能性も否定できませんが︙︙」
「そうだな。とにかくICUで経過をみよう」
初期研修医も二人の会話を聞いていた。
*
月島は一旦、病院の自室に戻った。副院長室は役員エリアにあるため、この時間帯では暗闇の奥になる。おまけに月島の部屋は西一面がすべてガラス張りであり、日没後はとても冷え込む。エアコンのスイッチを入れるが、そうそう温まるものではない。隣のパントリーに行って暖かいコーヒーでも淹れればいいのだが、月島は年中アイスコーヒーである。寒さで体を丸めながら、PCを立ち上げてメールの受信箱を確認してみた。昨日、病院を離れてから半日もたっていないが、すでに五十ほどのメールが溜まっている。ほとんどが英語のメールで、論文の投稿を促す類のものであった。これらは論文の掲載に多額の支払いを要する、いわゆるハゲタカジャーナルからのリクエストが大部分だ。拒否リストに追加しても、どういう訳かすり抜けて受信箱まで辿り着くから不思議だ。やれやれと月島は思った。
帰る前にICUに立ち寄ってみると、櫻木と初期研修医がカルテを入力していた。月島はベットサイドに行って、患者と言葉を交わしながら、アンギオ室ではできなかった聴診を行った。聴診器の膜部分を胸骨左縁第二肋間にあててみるが、特に問題はない。心周期を通じて心雑音を聴取しない。Ⅱ音は吸気時にわずかに分裂しているが、肺動脈成分の亢進はない。が、次に聴診器のベル部分を心尖部にそっと乗せてみた時に彼の顔が少し曇った。聴診器を強く胸に押し当て心音の変化を確認した月島は確信した。
月島は櫻木と研修医のところへ戻った。
そして研修医に聞いてみた。
「今回の症状は胃じゃないの?」
「消化性潰瘍の既往はありません。ピロリ検査も陰性だったようです」
ピロリ菌とは強酸性の胃内に生息する細菌である。この菌が陰性であれば、胃潰瘍や胃癌を発症する確率は格段に低下することが知られている。
「じゃ、胆嚢は? 胆石発作でST変化を生じることは少なくないよ」
「エコーで胆嚢や胆管の拡大はありませんでした」
なかなか優秀な研修医である。
月島は次に櫻木に問うた。
「でもこれは心筋虚血だね。どうしてだと思う?」
急な質問に櫻木は少し驚いて、大きな眼で何度か瞬きをした。月島が身体所見の知識に長けていることは十分すぎるくらい知っている。本例は冠動脈に狭窄はないが心筋虚血を生じた、いわゆるINOCAと呼ばれる病態である。きっと心臓の表面にある冠動脈よりもはるかに細径の動脈を主体とした心筋虚血だ。
「もしかしてⅣ音ですか?」
「そうだ」
櫻木の顔に安堵が戻った。Ⅳ音は心室コンプライアンスの低下した病態で出現する低調な過剰心音である。そして心筋コンプライアンスの低下する主たる病態は左室肥大と心筋虚血である。本例に肥大がないことは、救急室でのベットサイド心エコー図で確認している。
三人で患者の元に赴き、再度聴診をさせてもらった。櫻木は一分程かけて丁寧に聴診を行い、月島の意図することを明瞭に理解したのか深く頷いている。聴診器を持参していなかった初期研修医は、月島の聴診器を借りて心臓の音を確認した。そして明瞭なⅣ音を聴取し感動したらしく、「月島先生の聴診器はすごくいいですね」と言った。聴診器もさることながら、本例のⅣ音がそれほど明瞭であったということだ。ちなみに月島の聴診器は、ウェルチアレン社製のハーベイデラックス(ダブルヘッド)であった。月島は聴診器コレクターで十本以上を所有しているが、この聴診器はお気に入りの一品である。
「入院中に心臓MRIやBMIPP検査などを行ってみます」
櫻木は月島にそういうと頭をもう一度ぺこりと下げた。そういえば今回は、櫻木はマスクを一度も取らなかったなと月島は思った。いつもは緊急カテーテルが終わったら外しているはずである。ひょっとして口紅などを塗っていないためかも、などと月島は考えた。櫻木は普段からどちらかというと薄化粧であるが、もちろんその素顔を見たことはない。月島はマスクの下にある桜木の口元を少し想像してみたが、すぐに頭を切り替えた。循環器内科医としては全くどうでもいいことである。
ICUを出た月島は、自室に聴診器を置いた後、病院の時間外出入り口に向かった。
五分前に呼んだタクシーがそろそろ到着する頃だろう。